書籍・雑誌

高慢、強気、非妥協的、先見性、確固たる意思、強い責任感

20091202_hato世相を見るには“流行り言葉”が役に立つ時もある。

『空気が読めない』『上から目線』などが好例だ。私は、この二つの言葉がヘドが出るくらい嫌いであるが、それは置いといて、、、、

言葉自体は昔からあるのだが、“適用を間違えている”と感じるのだ。状況を正確に認識し言葉に表現しなくてはならない場面で「空気が読めない」と言って暗黙の了解を求めたり、上下関係が必要な場面で「上から目線の物言いに腹が立つ」などなど。

現代は、物腰が低く、出しゃばらず、協調性があり、未来を読まず、優柔不断、無責任が“かしこい”生き方だとされる時代である。

これは、戦前の反動ゆえ、戦後、弱者と呼ばれる人達の対応に行き過ぎがあったからなのだが、今に至り、すでに取り返しの付かない次元まで来てしまったと感じているのは、私だけではあるまい。

人の個性を表す言葉、タイトルの言葉は、明治期以前には個人のキャラクターとしては不可分であったはず。先見性があり、確固たる意思、強い責任感を持ち、国の行く末を憂う人は、高慢、強気、非妥協的にならざるを得ない。小説などでは、時代に合わせ、庶民感覚に迎合するように“登場人物”の性格を脚色する事はあるにせよ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に『高慢、強気、非妥協的、先見性、確固たる意思、強い責任感』はよく似合う。嫌な感じはしない。

明治初頭の登場人物にしてもその通りだろう。世相が強力なリーダーを尊敬し従うという価値観があったからだ。

ところが現代の日本人は、先見性、確固たる意思、強い責任感は持っていても、高慢、強気、非妥協的は「ダメ」だという。こんなのありえないのに。


今の日本は、以前の日本と似て非なる国なのは、民主党などという究極の日和見集団が政権を取ってしまった事が、証明している。「国民目線」で国の舵取りが出来るのなら、政治家は要らない。


これが、歴史的な政権交代なのだろう。


そんな中、2009年12月1日 共同通信社によると、『長妻昭厚生労働相は1日の閣僚懇談会で、たばこ税について「健康の観点から経済協力開発機構(OECD)加盟国の平均並みに上げるべきだ」と述べた。』とあった。

「国民目線」に潰されず、1箱600円程度にすることが出来れば、私は、まだまだ、日本も民主党も捨てたもんじゃない・・・って思えるのだが。。。以前のエントリー『囚人のジレンマ』で、厭世的に「日本じゃ出来っこない」と言った事を取り消しても良い。。。。


さて、明治初頭の登場人物が活躍する、見ていてスカっとするドラマがNHKで始まった。足掛け3年の大作、『坂の上の雲』である。

「大志を抱く」ことを「かっこ悪い」って感じる腑抜けな奴らをぶっ飛ばしたくなる鬱憤を晴らす為にも、楽しみにしていた作品だ。

今年の初め、この為に文庫版全8巻を買い込んで、3ヶ月も掛けて、じっくり読んだはずなのだが、すでにところどころ、記憶が薄れてきている。。。。が、さすがにもう一度、読む気にはならない。塩野七海の「ローマ人の物語」は、何度も読み返せるのに・・・・・。

「なんでたろ?」って不思議だった。。。。でも、これ、文庫版「ローマ人の物語」第3巻の巻頭“読者へ”に、腑に落ちることが書いてあった。

 歴史への対し方には、個々の事象の研究に専念する傾向の強い学者をのぞけば、大別して次の二派に分類できるかと思う。
 第一は、マキャベリにその典型を見るタイプだ。アッピールしたいと思うことの例証として、歴史を使うやり方である。
 ・・・・・
歴史への対し方の第二派だが、・・・・ドイツのモムゼン、、、、イギリスのギボン、、、・・・・一言で言うとすれば、叙述ではないかと思う。彼らにあっては、歴史の叙述は目的であって、手段ではない。
 私は、第一と第二の優劣を論じているのではない。ただ、違うといっているだけである。・・・・・・・私も、この第二派に属す。

大分、端折ったが、大意は掴めたと思う。

私は、そこから何かを得たい為に本を読むことが多い。感動、驚き、ハラハラ、、、、知識・・と。そして、今まで生きてきて、活字になった文章で読んだ事が多いものは、学術書や論文の類だ。考察という主観はあるにせよ、科学者は「ディタッチメント」(detachment)を信条としているから、小説のような主観を押し付けられる事はない。

無意識に、そんな判断・判別をしているのかもしれない。

いわゆる、人の手垢が付いていないモノ、一次資料を糧として自分で判断したい・・・のだ。他人の価値観で染まったものを暢気に読むつもりはない。エッセイの類をあまり読まないのも、この理由からかも。嫌いじゃないんだけど、時間を使うからには、こんなものを読む為に使うのは勿体無い・・・と。打算的でもある。

だから、小説は一回以上は読む気がしないのだ。

塩野七海の「ローマ人の物語」は、著者自身が書いているように、『叙述』なのだ。だから、へんな“曲”がない。何度でも読める。。。。ただ、好きじゃないと読めないかもしれない。盛り上がりには欠けるし・・・・。
 
 
 
歴史が好きになるには、小説が手っ取り早い。断然、面白いから。だけど、知識にするには、ちとマズイ。知恵にするには、もっとマズイ。

でも、宝くじが、買わなきゃ当たらないのと同様、好きにならなきゃ、知識も増えない。少し前に、高校の授業カリキュラムから“歴史”を削るとかなんとかで、すったもんだした事があった。

たしかに、年表丸覚えと、時間の流れの“叙述”じゃつまんないかもしれない。

まず、高校生に歴史を好きになってもらうには、小説から・・・・ってのは、良い手段だと思う。その後で、バイアスを取り除いていけば良いんだから・・・(これはこれで難しいのだけれど・・・理由は後述、、するまでもないがっ・・)

反対に絶対やっちゃいけないのが、時間を遡る事だ。因果の結果から原因を探るという見方をしてはいけないのは、医療統計学をみればわかること。結果がわかっていて「原因はコレだっ」ってやるのは、自然治癒する疾患の経過観察中にミミズの乾燥粉末を飲ませて、「これで治ったのだ」ってやるようなものだからだ。よく言えば、レトロスペクティブだけど、悪く言えば“下衆の後知恵”になるからだ。

歴史の流れを捉えれば、将来を予測する何かのヒントになるって、よく『歴史が語る』と言う言葉を使う人がいるが、こういう人ほど『歴史家が語る』に染まってしまうのだ。歴史は、それ自体が後ろ向き(結果がわかっている)なので、すべての説が主観と言ってもよい。『歴史が語る』のではなく『歴史家が語る』になってしまうのだ。

人間、思い込むと交絡因子まで、因果関係ありと見えてしまう。“思い込む”という生理現象が悪いのではなく、“思い込み”を適用する場所を間違えているのだ。『思いねよらぬ力が発揮できた』などと、自己暗示などで使うのは正解だ。

だが、小説から入って歴史を好きになる事が、小説が面白いと小説家のファンになり、その主観まで正しいと思いこんでしまうのが“ネガティブ”な面なのだ。

吉田拓郎ファンは、吉田拓郎の歌詞にイチャモンをつけるという。好きだからこそイチャモンをつけるのだそうだ。小説家を好きになっても盲信しなければ、バイアスを取り除く事は簡単かもしれないが、、、、歌謡曲と小説では、どうしても小説のほうが“知的”な分、ファンは、染まるんだろうなぁ。。。。


まっ、テレビでは、NHK ですら、人気俳優を配して視聴率を稼ごうとしている。「坂の上の雲」に限らず、来年の大河ドラマは、あの 福山(ガリレオ)雅治 だ。こういうので、興味を引くって手もあるよなぁ。実際、歴女は、歴史ゲームの中のイケメン勇者に憧れちゃってるって話しだし。。。。。。まぁ、小説じゃなくってもいいのかもしんない。。。

なんて言うと、司馬遼太郎ファンには怒られそうだなっ!福山君やゲームの真田幸村と一緒にすんなってね。

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盲腸とか左心耳とか・・・

20091028_flanders人間の体の中にあって、なんだろうなぁ?、、、ってもの、けっこうある。盲腸とか左心耳とか・・・進化の名残なのか、それとも何か機能を担っているのか??

進化の名残といえば、耳のなかには、進化の名残がはっきりと証明されている。Malleus:槌骨、Incus:砧骨、Stapes:鐙骨 がそれ。ヒトが魚だった頃には“あご”の骨として使われていたものが、陸に上がって、“聴覚”を発達させる必要に迫られて、、、、、って、聴覚を発達させられたから、現在がある・・・これが正しいんだけど、、、、。


人間は、結果に理由が欲しいんだよねぇ・・・


水中では、振動が肌(触覚)で感知できる、、、、陸上では空気の振動を確実に拾い上げるには、触覚では役不足、、、、、だ!(なのか?)

相対的に同等なら、、、、捕食者も被食者も、同様に振動に鈍いままなら、外界の変化(動きは振動になる)に敏感になる(音を拾う)必要はないことになる。。。。

みんなが、他より優位に立とうとしなかったら・・・・平和だよねっ!出会いがしらが、捕食者と被食者になる分かれ道。これはしょうがない。

この辺が、共産主義、社会主義の人達の論拠なんだろう。

でも、ちょっと、まってよ!!競争で他より優位に立とう(結果的に優位になる変異)としなかったら、、、、ヒトまで進化してないじゃん!!

ご先祖様(ヒトじゃないけど)が、みんなで仲良く・・・やってたら俺たち、いないじゃん!!

ええっ?この辺、どう説明すんのよ?共産主義、社会主義の人達!!競争する(資本主義)のは、生物の本質であり、本態なんだよ。
(同様に互恵的利他行動=宗教の本質であり本態。この辺のバランスが日本人には欠落している?)


と、理論的に破綻している思想を、いじめるのはかわいそうだから、話は変えよう。


昨日、職場で、文学の効用を話し合っていた。(すごいでしょ!この高尚な職場環境!!なんちゃって!!)

その事が、頭の片隅に残っていたのだろう。今朝の通勤電車の中では、『フランダースの犬』の事を考えていた。

フランダースの犬は、知っていると思うが、とても可哀想な運命をたどる。私も、娘を寝かしつける為、絵本を読んであげることがあるのだが、うかつにも、胸がつまってしまい、声が出なくなることがある。

でも、みんなは、こんな話は知らないんじゃないかな?

フランダースの犬に踏み殺された蟻の話。それから、フランダースの犬に食い殺された野うさぎ・野ねずみの物語を。

貧しかったネロは、満足にエサをあげられなかった。だから、パトラッシュは、自力で空腹を満たすしかなかった。(半野良状態ですね!)

蟻や野うさぎ、野ねずみを主人公にお話を作ると、パトラッシェは、さながらギリシャ神話“オデュッセイア”の単眼巨人ポリュペモスの様相を呈する。

パトラッシェが静かに死んでいく様を見届け、蟻や野うさぎ、野ねずみ達は、祝宴を開くというのが、この話の大団円だ。


NHKドラマ スペシャルドラマ「坂の上の雲」が始まる。とても楽しみにしていたドラマだ。原作者の司馬遼太郎氏は、一角の歴史家だ。歴史の登場人物たちの印象を一変させる筆力があるのだから。氏の作品から歴史を好きになった人は多いといわれている。

だが、私の勘違いであれば良いのだが、氏の歴史観が“客観的に正しい事実”であると思っている人が多いのではないだろうか?氏は戦争体験者で、戦争が嫌いらしい。氏が小説を書くに当たって集める資料は膨大だという。。。だが、膨大さがバイアスを否定するという保証はない。

というより、氏の書く小説に限らず、物語に主人公が登場した時点で、主観的になるのは避けられないのだ。氏の小説にしても、主人公の目を通して当時を俯瞰してても、それは、作者の主観から離れられない。

主観を廃するというのなら、「坂の上の雲」の登場人物に関わる全ての人を主人公にして物語を作らねばならないだろう。

「フランダースの犬」を蟻や野うさぎ、野ねずみの側から見たようにね。

評論家は、小説の分類に“私小説”という言葉を使う。単に表現方法が一人称で進んでいくという事なのだろうが、言葉だけが独り歩きした結果、“私小説”でなければ“客観的”な内容になると勘違いしていく事になったのてはないだろうか?


司馬氏の歴史観が、もし自虐的な歴史観に影響を与えているとしたら、それは、大変、哀しい事だ。

外交という、高度に感情を抑えなければならない舞台に、感情を惹起することが目的の小説から歴史的な認識を得るなどいう“愚”は犯してはならない。

中国や韓国は外交を優位に進める為に、国民を煽り洗脳し感情を惹起させている。彼らと同レベルに立つ事は、自らを貶める事になるわけだから。

いや、貶めるというよりは、私流に言えば『頭が悪い』と言うことになる。

事実の認識に“感情”を伴わせて“印象”を操作する、お昼の“テレビショッピング”に騙されるのと同じレベルなんだからね。


じゃ、お前は、司馬遼太郎や「坂の上の雲」が嫌いなのか?って聞きたくなるかもしれない?

私の中では、小説はあくまで小説、文学はあくまで文学、感情が惹起される事を楽しむだけだ。そして、これは、人生の半分を占めるくらい、大事な事だと思っている。小説や物語で幸せな気分になったり、悲しんだり、主人公に感情移入したりすることが、不必要なわけが無い。

だが、事実の認識に、感情が伴う事はあってはならないと思っている。

しかるに、感情に印象(『それは重症だ』とか『そんなの軽いよ』とか)を操作されるような医療は、サイエンスではないと思っているので、事実を事実として受け止めなければと、しょっちゅう書いているわけだ。

弱者が嫌いなわけではなく、弱者が“文学的な弱者=かわいそう”を装い、横暴な振る舞いをすることが嫌いなのだ。

客観性を失わせる“文学”をサイエンスに持ち込む事は“禁忌”にすべきだ。
 
 
 
ここで、昨日の文学の効用の無駄話に戻るわけだが、史学科出身の kmoto 氏は、最近の文学部の在り方を嘆いている。文学が、科学を取り込み始めているって。。。

私も、激しく同感した。文学は、エビデンスなんて必要ない。理論的に破綻しているとか、そんな事を考えなくても良い。他人を説得できなくても良い。それは、個人が感じる事なのだから。

私の場合は、フランダースの犬に涙できなくなったら、、、、人間、お仕舞いじゃない?って感じるだけ。私にとっては、それが大事!って事。

同様に、秋山好古、、、カッコイイ・・・・、こんな“生き様”憧れるぅ・・・って。ほんとは、歴史の中では、盲腸とか左心耳だったかも知れないけど・・・ねっ!

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隠喩。暗喩。

20090616_metaphorメタファーと言ったほうが、わかりやすいのかもしれない。

ウィキペディアには、《初めてメタファーの意義に言及したと言われているのはアリストテレスであり、彼は『詩学』のなかで、「もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」と述べている。》と書いてある。

メタファーは、すなわち、創造力だ。

この創造力って、脳科学でも全く未解決らしいんだけど、口の悪い人に言わせると『そんなもの、チンパンジーにタイプライターを与えておけば、いずれはシェイクスピアの戯曲ができるさ』なんだとさ。でも、実際には、意味のあるセンテンス一つ出来るのに、10億年はかかりそうだ。

それはいいとして、メタファーを「単なる言葉遊びだろう」「ランダムに組み合わせているうちに出来るよ」とか言っている人に、たとえば『物事をやりすぎる』又は『ばかばかしく過度な行為をする』というメタファーを考えてみよと言うと、まるっきり出来ないらしい。


ことわざや、過去に誰かが言い表した言葉以外で、あなたも考えてみて欲しい。

わたしなんぞ、ここ、何時間も考えているけど、まるっきり出てこない。。。


メタファーという言葉から連想される作家は?と聞かれれば、がほとんどの人が“村上春樹”と答えるだろう。なにしろ、作品自体がメタファーとか、わかったようなわかんないような評をされるくらいだからね。


で、『1Q84』だ。

売り方が巧いのか、『面白いよ』と聞き買いに走ったのかはわからないが、自宅近所の本屋では、まだ、買えない。

kmoto さんはすでに読み始めている。ブログでは、「・・・・夢中になり一日中本を手放さなかった。」とある。ここで、速攻ブラウザを閉じたのは言うまでもない。読もうと思っている本の書評(メタバレ)は読みたくないからね。ただ、本日付の読売新聞朝刊に・・・・おもわず、読んでしまったのだ。遅刻しそうになりながら・・・。


世界中で“村上春樹”が読まれている。

どうやら、その理由はメタファーにあるとみて良さそうである。

ちなみに、先ほど、「あなたも考えてみて」と言ったメタファー、16~17世紀に活躍したシェイクスピアは次のように表現している。

【純金に金箔をはり、ユリの花に絵の具を塗り、スミレに香水をふりかけ、氷をなめらかにし、虹にもう一つ別の色を加える・・・・は無駄で、ばからしい、余分な事でありましょう。】

一回、聞いてしまえば、「あっ、そうだよなぁ」な表現も、自分で生み出すとなると、とんでもなく難しい。難しい事をスラスラ?こなしてしまうシェイクスピアは、やっぱり、天才であり、天才のあやつる言葉は人種、文化を越えて心に触れる。全世界で翻訳されて上演されているワケだ。

アリストテレスは、メタファーの達人は“偉大な人”と言っている。アレキサンダー大王の時代で偉大と言えば、英雄であり賢者だ。その名は世界中に轟く。現在なら、差し詰め“天才”と呼ばれるのだろう。

そういう意味では“村上春樹”は天才であり、世界中で読まれるのは当然、、、なのかもしれない。

あっ、私は村上春樹の回し者じゃありませんよっ!


p.s.(村上春樹の回し者とは、“村上春樹 萌えぇ~”のメタフアーである・・・・・・ゴメン)

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海の挽歌

20090414_natural_selection動物行動学者のコンラート・ローレンツらがノーベル医学・生理学賞を受賞したのが1973年だ。ローレンツらが研究を始めるまでは動物行動学などという領域すらなかったのだから、ノーベル賞は当然なのだが、、、、

で、ローレンツの名前を知らない人でも、ガン・カモ類のヒナが孵化した後、数分の間に見た動くものを親と思って何処までもついていく“刷り込み”という現象があることは知っているだろう。(分子生物学での“刷り込み”とは意味が違う)

ノーベル賞を同時受賞したニコ・ティンバーゲンのセグロカモメのヒナが親鳥にエサをねだるシーンで、その行動は親鳥のくちばしの先にある“赤い斑点”によって誘発される、しかも、“赤い斑点”があれば、親鳥の格好をしてないものに対しても反応する。逆に親鳥のくちばしの先端にある“赤い斑点”を隠してしまうと、ヒナはエサをねだる行動をしないという研究も有名だ。


動物行動学が学問として世に登場するまで、“人間”は、身の回りの現象や動物の行動にに高尚な寓意を持たせてきた。

「やっぱり、子は親を頼るもんだ」
「あんな鳥でも、親だってわかってるんだよなぁ」

みたいな・・・・・。

ローレンツらは、動物の行動に人間が考えているようなヒューマニズムは存在しないということを科学的に明らかにしたわけだが、私、個人的には、それは、人間の行動にも拡張できるんじゃないかと思っている。こんなことは、世が世なら、大っぴらに言えたもんじゃなかっただろう。つい最近までヨーロッパでは、教会の目が怖くて“進化論”も語れなかったんだから。(あっ!今でも教会の力は強い・・・・?)

人間まで拡張できる・・・・・っていうのは、最近、読み終えた阿刀田 高氏の【海の挽歌】を読んでいる時にも、チラチラと感じていて、阿刀田 高氏の場合は、動物行動学を知ってか知らずか、どちらにしても、野生の感?で、こういうことを知っているんじゃないかと思わせる。最近読んだ中で、真逆なのは司馬遼太郎氏だ。司馬氏の場合は、人の行動に過大に意味を持たせ、過大に影響があるとしていると感じる。もっとも、司馬氏の生きた時代は、動物行動学など知る由の無いのだから、仕方ないのだが・・・・。


【海の挽歌】は、kmoto さんから教えてもらった本だ。カルタゴに思いを馳せる主人公の人生のエピソードを綴っている物語だ。

この小説の中で、「もし、ポエニ戦争でローマが負けていたら、世の中はどうなったんだろうか?」「もし、ハンニバルがいなかったら・・・・」と。
それに対して、「でも、ハンニバルがいなくても、ローマが負けても、似たような人が現れ、ローマがヨーロッパを統治しなくても、キリスト教は広まり、現代に繋がるんじゃない」と。

私も、全く、同意見である。

人生には分岐点があり、「あの時、別の道を選んでいたら、今の自分は・・・」なんて思うシーンでも、「でも、結局、どの道を選んでも、自分の能力に変わりはないんだし、似たような生活をしているんだろう・・・」と。

これも、全く、同意見である。

単純に考えたって、1億5千年前に、とても凶暴な一匹のティラノサウルスが居なかったら・・・・・とか、そのティラノサウルスに食い殺されなかった一匹の哺乳類の祖先が・・・・とか、そんなものに地球環境の経過と生命の進化が左右されるはずも無いことは、小学生だってわかるはず。

さらに、とてつもなく影響力を持った個体が出現しなくたって、そのマイナス方向のベクトルが居なくなるだけで、帳尻は合うわけで、とてつもなく影響力を持った個体が出現する事が、すなわち、その反対の力を生むことになるわけで・・・・・

小泉元首相が居たから、反小泉が居るわけで、、、、、小泉さんが居なかったら、反小泉も居ないわけで、、、、、。事を起こす前に、反勢力があるから、依怙地になるわけで、、、、、

東郷平八郎が居なくても、野木希典がいなくても、秋山真之がいなくても、日露戦争に負けていても、右や左、前や後ろへの多少のブレはあるのだろうけど、今の我々の生活に、大きな変化はないのだろう。

一家の大黒柱が戦死しなかったら、、、っていうけど、交通事故で死ぬかもしれないし、仕事で失敗して自殺するかもしれないし、、、、、それは、東郷平八郎や野木希典や秋山真之の存在とは関係のない話で、、、、、


でも、現代には、「あの時、あっちの道を選んでいたら、今とは違っていただろう」なんて思っている人は、意外に多い。その為に、いかがわしい商売の餌食なることも多々ある。

小説の世界では、「この人がいたから、今の世の中がある」と言わせたほうが、断然、面白いのだが、その世界観を現実と区別できない人達が、まわりに振り回され、世の中に不満をぶちまける人達になるのだろう。

生半可な知識を振りかざし、「政治的判断はこうあるべき」なんて言うのは滑稽以外の何物でもないのだが、かわいそうな人でもある。周りの影響を受けやすいという意味で。影響を受けやすい人は、人の影響力を過大に評価するのだろう。たぶん、これって生まれつき・・・・・。個性の多様化は種にとって必要不可欠だから、これでいいんだろうけど。。。


さて、今回は、【海の挽歌】をネタに書いてるんだけど、阿刀田 高氏の作品は、どれも、フワフワっと頼りない感じがするんだけれど、これって、もしかしたら、【海辺のカフカ】を読んだときに感じたものと共通するかもしれない。

ロシア文学の古典くらいは読んでおかなきゃって事で読んでみた【カラマーゾフの兄弟】とは対極を為すんじゃないかな。

村上 春樹氏や阿刀田 高氏は、“野生の感”が発達しているっていうか、人間の行動を素直に受け取っている。考えすぎた“理屈”をこじつけていない。
 
 
 
ところで、“種の保存”という言葉を聞いたことのない人はいないんじゃないかな?いくら、理科の授業を聞いていなかったとしても。

しかし、この種の保存という“群淘汰”の考え方が間違いであることを知っている人は、驚くほど少ない。

では、正しい淘汰とは何なのか?

それは、遺伝子淘汰である。

リチャード・ドーキンスの【利己的な遺伝子】は知っていても、これが、生物進化において、群淘汰が間違いで遺伝子淘汰が正解であると言っている事すら知っている人は少ない。利己的な遺伝子を持っているから、「人間は“利己的なんだ”」とか、爆笑モノの勘違いを平気でしている人が、非常に多いのだ。


さて、群淘汰では「動物は種の保存の為に行動する」とか「動物の持っている性質は、種の保存に有利なものである」としている。これが何故、誤りなのかわからない人は自分で勉強してもらうとして、これに関する面白いエピソードがあるので紹介する。

背景として、霊長類以外の生物では遺伝子淘汰は比較的早くから受け入れられていた(1980年代の半ば)時代、霊長類の行動に関するある研究会で強固に群淘汰を主張している研究者がいた。それに対し、遺伝子淘汰論者の昆虫学者から、「しかし、その行動を行う行為者にとっては、それはどんな利益があるのか?」という質問が出た。そのとき、その群淘汰論者の反応は、「私は、君のように利益だ損失だという卑しい考え方はしない」というものだった。。。。。。(長谷川眞理子著【進化生物学への道】より)


生物にとっての行動は、それが自分にとって利益があるのかどうか?の一つなのだ。究極には。


欧米で、動物の行動・生態に遺伝子淘汰の考えがコンセンサスを得た時、まだ、日本では、その行動に“意味”、“意義”をもたせたい人達が沢山いたのだ。

「やっぱり、子は親を頼るもんだ」
「あんな鳥でも、親だってわかってるんだよなぁ」

みたいな・・・・・。

ただし、コンラート・ローレンツ自身は、バリバリの群淘汰論者だった。けれど、その時代には、まだ、遺伝子淘汰という考え方がなかったのだから仕方がない。
 
 
 
人間の行動に、意味・意義を付けないと、小説は面白くならない。だから、過去の小説家達は、その方法をとったのだろう。

その方面の代表者って事(他にあまり知らないし)で、司馬遼太郎氏を例に挙げるんだけど、別にそれを批判しているわけじゃない。コンラート・ローレンツが群淘汰論者だったことを批判しないようにね。問題は、その取り巻き連中なのだ。司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』を読んで、著者自身に興味がわき、プロフィール調べてみると、氏の著作は、現代人が持つべき感覚のスタンダードみたいな評価をしている人もいて、気持ち悪くなったのだ。これが、氏を代表者として例に挙げる理由でもある。
 
 
 
生物学に、遺伝子という“言語”が加わって、格段に未来が予測できるようになった。(そういう意味では、医学は、まだ祈祷の域を出ていない。博物学のレベルだ)

歴史が未来予測のツールになる為には、遺伝子という“言語”は必須だ。

歴史に登場した人物の(その時の一般庶民も含め) DNA シーケンス及びメチル化の状態とともに事実の記述が為されて、初めて、人類は「歴史から学べる」ようになるのだろう。(ハンニバルやスキピオの DNA シーケンス及びメチル化の状態を知るすべは無いんだけど)

悲しいかな、現代の歴史学(史学)は、未来を予測するという点において、生物学が博物学だった頃のレベルだと言わざるを得ない。

現代の政治(行政や立法、司法)に口を挟む根拠として、歴史の知識、しかも、一小説家(司馬遼太郎氏)の調べ上げた事を“現代人が持つべき感覚のスタンダード”なんて扱いにしていることに対して、違和感を感じるなという方が、無理ってもんなのだ。少なくとも私にとっては。

戦争を人間が地球上の生物の一種として生まれてしまったからには避けようが無い行為の一つであると認識せずに、軍部の暴走だとかなんとか忌み嫌うだけではそれを避けうる妙案は浮かばない(たとえ、日本が太平洋戦争に突入するその軍部の暴走が第1次大戦後のドイツに対するベルサイユ条約が引き金だったと解釈していたとしても。新渡戸稲造が頑張っても、所詮、勝てば官軍。勝たなきゃ・・・って感じるのが遺伝子なのだから)。それは、サルの集団内で発生する“子殺し”を群淘汰で「個体数が増えすぎるのを抑える行動だ」なんて解釈をするのと同じなのだ。
 
 
 
そういうわけで、ここ、数年、村上 春樹氏がノーベル文学賞の候補に挙がっているのも、氏の文章に、遺伝子の存在を感じさせるものがあるからなのか・・・・なんて事を思っている。

最近の流行っていうのかな、、、、文学に遺伝子を持ち込むと、ドストエフスキーや司馬遼太郎は過去のもになり、村上 春樹氏のような人間の描写になる、、人間賛歌は、遺伝子とは対極を為すからねぇ。

なにしろ、人間は遺伝子の乗り物なんだから・・・・・by Clinton Richard Dawkins

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まず石を投げよ

20090404_stoneネタバレ注意!   思い切りネタバレです。

ブログで書評を書くのは、もしかしたら初めてかもしれない。話の切り口に使うことはあっても。ネタバレを書いた記憶がないから。。。で、、、

久坂部 羊氏のこれまでの小説(『破裂』『廃用身』『無痛』)は、かなり鋭い切り口と、一気に読ませるストーリーがあり、面白く読んでた。そして、毎回、新作を期待してた。だけど、、、


ここでは小説の主題となる部分を書いてしまうので、これから、この小説を読もうと思っている人は以下を読まないほうが良い。

で、結論から言うと、専門的な内容を含んだ小説は、極めて“キワモノ”になりやすい性質を帯びている。私にとっては、Science 誌(September 26 2008, Vol.321)に掲載された論文を読んでしまってからこの小説を読んだので、かなり面白さが半減してしまったといえる。

以前にも【『心底惚れた女が、実は男だった』って感じ?】でネタにした論文なのだが、再掲したい。

ガンの転移を再考する(Rethinking Cancer Metastasis)

Science September 26 2008, Vol.321

ほとんどの人のガンによる死亡は、原発性のガン細胞が体の新しい部位に伝播して拡散する転移によって起きる。

途中の血流中を生き延び、新規の組織の環境に定着することを含め、転移性細胞は複雑な一連の段階をうまく切り抜けなければならないので、転移はガンの進行における遅い段階で起きるとこれまで考えられていた。

Podsypanina たち(p. 1841,8月28日オンライン出版、および、Kleinによる展望記事参照)によると、転移プロセスの開始は以前考えられていたよりもっと前かららしい。

正常なマウスの乳房細胞を遺伝子操作して、ガン遺伝子発現のタイミングを実験的に制御し、これをマウスの血流中に注入した。

驚いたことにガン遺伝子の発現がないときは、正常な乳房細胞は肺まで移動し最大16週間生存するが、ガン遺伝子が活性化するまでは攻撃的成長を開始しなかった。

このように腫瘍転移は、播種性の正常な (前悪性)細胞から発生し、遺伝的な変化が悪性になるまで臨床的には黙ってじっと待っている。

Seeding and Propagation of Untransformed Mouse Mammary Cells in the Lung
p. 1841-1844.
CANCER: The Metastasis Cascade
p. 1785-1787.


・医者はミスを隠蔽したがる。
・それを暴いて、世間に公表する。それがマスコミの使命

って事で、物語は展開していく・・・・

医師がミスを起こした時、その心理状態は?どういう行動をとる?と、医師に対して“ドッキリカメラ”のような巧妙な“仕掛け”を施し、その状況を隠し撮りするのだ。

舞台は健康診断だけを行うクリニック。検診を行う医師は、全てバイト。そのバイトの医師に、クリニックの看護師長から『半年前、胃の癌検診を受けた患者さんに、肝臓転移が判明した。家族から当時のレントゲン写真を貸して欲しいと頼まれたが、どうしましょうか?』と連絡が入る。

看護師長はマスコミに協力をしており、医師を“はめる”役割を担っている。

連絡を受けたバイト医師がクリニックにやってくる。ニセのカルテと共に、慣れた医師なら判読できる程度の癌が写ったニセのレントゲン写真をバイト医師に見せ、『当時の写真に癌は写っているんですか?もし、写っているとしたら、、、、見落とし、誤診ということになるのでしょうか?』と、白々しく語りかける。

作者は現役の医師なので、この辺の描写に破綻はない。10人が生贄になった。ただ、、、、、、

一人の医師が(この医師は、レントゲン写真の読影が苦手)、『癌なんて写ってないな』『まっ、写っていても、いなくても、すでに転移している場合もあるし・・・・』などと言い訳がましい言葉を並べて、写真の貸し出しを渋る場面がある。(こんなヤブ医者が検診やってるのか!と隠し撮りの別室で歓声が上がる)

作者は、世間一般の癌検診に対するコンセンサス、すなわち、『早期に発見できれば、癌は転移していない』『検診後、半年で他の臓器への転移が見つかったならば、検診時点で、早期癌を見落としたことになる』という認識を意識して筆を進めているのかもしれないが、この Science 誌 の論文にあるように『転移は細胞が癌化する前から起こっている』という事実の前では、読影が苦手な医師の“いいわけ”は、不自然な行為の描写であることが否定されるばかりでなく、最先端の知識を鑑みての見識となりうる事になり、この“仕掛け”の設定自体が、意味をなさなくなってしまう。

作品中で、番組製作プロデューサーの友達である看護師長に、『検診に意味はないのよ。検診を受けても受けなくても、死亡率に変わりはないんだから』と語らせているが、その『検診に意味はない』という自虐的ともとれる言葉も、この論文の後では、やりきれなさから発する言葉であろう意味合いがなくなってしまい、雰囲気を醸せなくなってしまう。

『癌検診に意味はない』
『検診を受けても受けなくても、助かる人は助かり死ぬ人は死ぬ。早期発見の意義は無いんだよ』
  ・
  ・
『うん、そうだけど、何か?』

って感じ。


この後、小説は、嵌められた医師の自殺へと展開する。

番組制作側は、この医師の自殺が自分達の責任ではないとしたい為に、互いにかばう言葉をかけあい、自分達に都合の良い事実だけを拾い上げ、逃避する行動をとりはじめる。

読み進めていけば、読者が、小説の中でマスコミが糾弾しようとしている医師の隠蔽体質が、そのままマスコミ自身に当てはまるのだと気づく仕掛けになっている。

結局、突き詰めると過誤を隠蔽したくなる心情は、『自分は可愛い』という人間の本能にかかわる部分に根ざす行動なので、誰にでもあり得る事だと気づかされる。。。。。


・・・・のだが、『転移は細胞が癌化する前から起こっている』のだから、検診の意義にネガテイブな結果の出る臨床研究があるのは当然で、検診の診断には意味は無い、、、、なら、転移して癌末期に陥った責任は、医師にはあり得ない事になる。

だから、責任を感じての自殺は、リアリティがなくなるのだ。


小説では、この医師の自殺は“癌検診の誤診”が原因ではない。


作者が書いている途中で、この Science 誌 の論文を読んだかどうか、あるいは、この基礎的な研究を途中で知ったのかどうかはわからないけど、もし、途中で知ったとしたら、この重たいテーマに対して、単なる辻褄あわせの結果のようなエンディングになってしまったのは、仕方ないのかもしれない。はっきりいって、あの展開は“肩透かし”以外の何物でもない。

久坂部 羊氏の小説は、『破裂』(★★★★)『廃用身』(★★★)『無痛』(★★★) と最後まで読ませるので、ポイントは高いのだが、『まず石を投げよ』はエンディングが釈然としないのだ。

医師の自殺は、マスコミの“策略”に嵌められたことを原因とし、隠蔽体質は、なにも医師だけの専売特許ではなく、国民の一人一人が持ち合わせている本能なのだという所に持ち込んで、物議を醸して欲しかった。

ただ、そのシナリオを推し進めるには、理論的な基盤を『早期に発見できれば、癌は転移していない』『検診後、半年で他の臓器への転移が見つかったならば、検診時点で、早期癌を見落としたことになる』とすると、全てが根底から覆されちゃう・・・・可能性がある。。。。


テーマは素晴らしいのだが、消化しきれていない・・・そんな印象を持った小説である。(肩透かしなエンディングは、ブロガーのエチケットととして書かないでおくことにする・・・・・ので、感謝するように!!ワハハハハ)

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siRNA から見た生命の混沌と司馬遼太郎

20090303_mirna哺乳類の siRNA が何から生成されるかといえば、全てがわかっているわけじゃないけど、トランスポゾンだったり、レトロポゾンだったりするわけだ。

理研の林崎らにより、DNA は全体の70%にも及ぶ領域が転写されていたことが解明された事は前にも書いたけど、この中にも、当然、レトロポゾンも含まれている。


一体何のために?・・・・・なんて考えてはいけない!


生命は、とにかく、行き当たりばったり、とりあえず転写しておく、、、、、そして、その転写物の中の一部は、折れ曲がって二本鎖を形成し、あるものは、相補的な相手と二本鎖を形成する。

こんな二本鎖を、(全く役に立たないから、)Dicer が適当なサイズにブツ切りにすると、これが今で言う siRNA として機能し、これらの(役に立たない)二本鎖を排除する。

こんな仕組みでの排除を免れた転写物は、あるものは分子内で小さなループ構造を形成し、それらが Drosha/DGCR8 や Dicer によって miRNA とされ、他の(役に立たない)転写物の排除機能や蛋白質への翻訳制御を担うことになる。

またまた、そんな仕組みでの排除を免れた転写物は、あるものは単に分解されちゃって、あるものは蛋白質の設計図となり、あるものは、アミノ酸の運搬係りとなり、あるものは、タンパク質性製造工場となり、、、、

って、逆から見ると、括弧でくくった→『(役に立たない)』って転写物は、結果論で「役立たず」ということが言えるだけで、最初から、「役立たず」だった訳じゃない。
なぜかと言うと、今、地球上にいる生物は、残り物で、うまく“生きている”を表現できただけだから・・・・だ。それに、見方を変えれば、外来ウイルスに対する防御機構とも見えるし、実際、Dicer がぶった切る作用が防御機構として機能してるし・・・・こんなものが転写されなきゃ、Dicer なんて自然消滅しちゃったかも知れないし。


miRNA、siRNA の産生に必要な Dicer を卵子特異的にノックアウトすると、卵子形成そのものが停止してしまう。で、このノックアウト卵子では卵母細胞のすてべての転写物の10%を占めるレトロポゾンが3倍以上にも上昇している。

このことは、miRNA、siRNA がレトロポゾンの抑制に必要なことは示しているのだが、じゃ、元々、何のためにレトロポゾン領域が転写されるの???ってことの疑問には答えられない。

ってゆーか、「何のためにレトロポゾン領域が転写されるの?」って疑問を持つ事自体がナンセンスなのだ!!!

って考えれば「なんで?」なんて“意義”を探さなくても良くなる。
 
 
 
世の中の仕組みも、まさに、DNA 転写物が織り成すこんな仕組みに似ているって感じる。

特定の人の視点を軸にして眺めれば、なるほど、歴史(現在進行形も含めて)はストーリーになるけれど、それを眺める人が“無益”と評価してしまった登場人物は、登場の余地すらない。また、その“影響”を加味して、“アンサンブル”っていうか“ハーモニー”っていうか、全体の流れ(結果)の原因の一つとして“ストーリー”を作ることも出来ない。

トランスポゾンもレトロトランスポゾンもスモールRNAも知られていなかった時代では、それらの“役者”は、歴史上で“無益”と評価してしまった人の“影響”と同様に、物語の中に登場させてもらえなかった。それで生命科学の辻褄を合わせていた(合っていたと思うしかなかった)。重要性は計り知れないというのにである。


現代は、時間の流れが速まってきているって感じる。

インフラっていうか、人を取り巻く環境の変化について行けない世代が、まだ、世の中に生きているっていう現実が、それを、いっそう、切実にさせるのだ。

コンビニのオーナーが廃業する理由が、ATM や その他のIT機器のトラブルに対処出来ないからだという。医療業界では、レセプトオンライン請求についていけず、廃業を考えている診療所が8%もあるのだとか。。。。

ジェネレーションギャップなんて言葉は、すでに、古くなって、10年間隔でギャップが存在しているかのようだ。

本来なら、効果の判定まで“じっくりと待つ”必要がある“改革”まで、じっくりと待てずに、すぐさま“結果”を欲しがり、その“結果”が出る前であっても“間違った事”として“こき下ろす”ということが、当たり前の時代になってしまったって感じる。

しかも、そもそも、期待する結果は、ひとつの原因=改革に拠って達成出来るわけではないのに、、、である。(あたかも、、、癌という病気は一つの遺伝子が悪くなって起こるのだから、その悪くなった遺伝子を直せば、癌は治る・・・なんて幼稚な認識しかないが如くである。)


『坂の上の雲』は、今、通勤電車で読んでいる小説だ。なんどもエントリーのネタにさせてもらっているが、作者の価値観がかなり偏好しているって感じるのは、やっぱり、私の中に、上述のような“理系思考”があるからだって思う。

歴史を専門とする人にとっての“批評”は“結果論”以外はなく、また、因果というのは全て明らかに出来るっていう“幻想”を前提にしないと、自分達の居場所がなくなるという宿命を背負っているからなのだろう。

だから、結果に対して、都合の良い“原因”を選択して『ほらねっ!』ってやるんだけど、『じゃ、あんたの知らないトランスポゾン、レトロトランスポゾン、スモールRNAは、あんたの説明の何処に入れるんだよ!』って、妙な“つっこみ”を入れてしまう。実際、そんなことをしながら楽しんでいるわけだ。(経済をやっている人には“合成の誤謬 (fallacy of composition)”方面から突っ込んでいただけるかも)


ただ、やっぱり、私も、世間の毒気に当てられているせいか、早く結末が知りたい(ってゆーか、日露戦争の結果は周知のごとくなんだけど、小説の最後を知りたい)って感じている。文庫本で全8巻というのは、ボリュームがありすぎで、そのため、中だるみなのである。字面だけを追ってしまっている。(勿体無い!!)

ほとんど朝の電車でしか読まないので、読み始めてからまるまる2ヶ月も経つのに、やっと第5巻にたどり着いたところなのだ。1~3巻に登場していた正岡子規なんて、違う小説の登場人物だったっけ?になってしまっているし。。。。


あっ、このエントリーは“本”だから、『坂の上の雲』の面白さを伝えるわけだけど、私みたいな“理系”に偏った人間が読んでも、かなり、面白いといえる。

理系だからかもしれない・・・。

何処に面白さを感じるかは、人それぞれだと思うけど、私は、作者の文章の“説明好き”な所が、妙に“理系”っぽくって好きなのだ。見当違いの説明に違和感を感じたり、突っ込みを入れたりしてるんだけど、何の説明もない本だったりしたら、突っ込みすら入れられないんだからね。それに、半分は『なるほどぉ~』って事になってるし。


ついでながら、感じたまま書きっぱなしで一切説明のない“エッセイ”の類は、こういう理由でほとんど読まないのである。

つけっ放しのテレビを眺めている時間のように、無駄に時間をだらだらと費やしたくなったときは、エッセイを読むことはあるけれど。


というわけで、このエントリーで、一部の人には『なるほど、司馬遼太郎はおもしろそうだ』って感じていただけたものと思う。今まで、読んだ事のなかった人にもお勧めです。でもって右の Amazon アフィリエイトをポチっと・・・・・・・・

   (。_゜)☆\(ーー;)バキッ

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神と科学は共存できるか?

20080317_religion_scienceマウスのフン集めを楽しいと思う人はごく一部だろう。だけど、マウスのフンはエラかったのだ。腸に潜む細菌について大切なことを教えてくれたから。MHC だけが違うマウスの腸内細菌にバリエーションがあることが、それが理由だと気づかせてくれたのだから。

私達人間の消化器の中でどの細菌が増殖するかは、少なくとも部分的には、私たちが免疫系にどんな遺伝子を持っているかによって決まっている。(赤ちゃんの頃、母親が口移しで与えてくれた食べ物とか、その家に伝わる糠みそとか・・・・、色々あるんだけど)

そして、どの細菌が増殖するかは、どんな腸の病気になりやすいかにも関係しているワケで、、、、いや、腸の病気だけじゃなくって、全身のも・・・・。


なんて、話の持って行き方をすれば、何人かの人は『マウスのフンは偉かった』って思ってくれるかもしれない。この話は、『マウスのフンは偉かった』を除いては、全て科学的である。だから騙される人も出てくるわけだが、決して『だから、、、』で『マウスのフンは偉かった』を結びつける事は出来ない・・・・・。
 
 
 
私は自分の無知により、神を信じている人は進化論を信じていないのかと思っていた。

しかし、スティーヴン・ジェイ・グールド著『神と科学は共存できるか?』を読んで、実際は違い、そんな人はアメリカ人のごく一部だと知った。

進化論を理科の授業で教えない事を立法化しているのもアメリカだけだった。

これらの法律は、ことごとく違憲判決が出され無効化されているそうだが、そうなった現在、彼ら(一部の宗教家)は別の戦略に出ている。インテリジェント・デザイン説を盾に、学校で神の存在を肯定させようとしているのだ。この言葉を聞いたことのある人も多いだろう。

このインテリジェント・デザイン説ってのは、博士の肩書きを持つ科学者達の中にも支持者がいる。『進化論が科学なのは理解した。だから、それを教えるなとは言わない。だが、インテリジェント・デザイン説もリッパな科学である。だから、この考えも平等に教えるべきである』というのが、彼らのロジックだ。


だが、インテリジェント・デザイン説は、エセ科学である。『マウスのフンは偉かった』と同じである。


その証拠に、インテリジェント・デザイン説を唱えている科学者達は、その説を発表する場は、学会ではなく“マスコミ”であり、科学と名の付く学会ではその説を相手にすらしていないのである。科学はこれが最後の説明だとか、これで全てを説明できるとして、発表されたりしない。別の人がこれを検証し、ブラッシュアップし、訂正し、(が出来る場が学会であり、論文雑誌だ)、、、を繰り返し、揺ぎ無いものになったものが、科学である。

しかし、一般大衆は、学会に発表されているとか、論文雑誌に投稿されているとかなんてことは知る由も無い。

テレビや雑誌、小説の類で知る機会の多い考え方の方が、世の中を席巻するのは、現職の大統領であるジョージ・ブッシュが、地方遊説先で『インテリジェント・デザイン説を学校で教えることは吝かではない』なんて発言して、側近達を慌てさせたことでも良くわかる。ってゆーか、ジョージ・ブッシュはやっぱり“おばか”。
 
 
 
クリスチャンなのに進化論を信じているのは日本人だけじゃないんだぁって事と、私の敬愛するリチャード・ドーキンスが完膚なきまで宗教がきらいなのも、宗教全てがきらいなんじゃなくて一神教、原理主義者が嫌いなんだって知ることが出来た。

『神は妄想である―宗教との決別』なんて挑戦的なタイトルが私を惹きつけるワケで、読みたい本のリストに入れてあるのだが、このグールドの本で、なんとなく、この周辺が見えてきたので『もう、読まなくってもいいかなぁ』なんて思い始めている。なんたって、感情的に理解できないところから出発するわけだから、電車の中で読んでても直ぐ眠くなってしまって、、、、引き込まれるページもあるにはあるのだが、難解なのだ。


っていうか、宗教を科学で理解しようとすること自体がナンセンスで、グールド曰く『科学と宗教は、重なりあわず独立して存在しているが、そのうえで互いに尊重すべき知的体系という関係にある』というのは、熟考するまでもなく、当たり前の事として捉えていた私には、ここまで深く考えることに、はっきり言って“?”なのである。

そして、グールドは『科学と宗教を「対立構造」で見立てるのが間違いであり、愚かしい』と主張し、その立場を彼は、あえてカソリックの言葉を使用し、「非重複教導権(マジステリウム)の原理」と名づけ、この本のテーマにしているのだが、はっきり言って、私には『豚に真珠』であり、“???”であった。


しかし、これも、いつか読むであろう本で、ポンと膝を打ち『あぁ~、これだよ!この感情だよ』とか『ははぁ~ん、こういうリアクションはアレだな』みたいに感じる為の糧になると思えば、まぁ、損をしたってことにはならないのだろう。

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苦い思い出

20080220_jade_rationalism本を読んでいて、ふと、昔の事を思い出した。

高校では体育会系テニス部(硬式)に所属して程々に活動していた私は、当然、公式戦にも出場するわけだが、今となっては“一つの試合”を除いて、結果はもとより試合している情景などすっかり忘れてしまっている。唯一、覚えている試合というのが、勝つには勝ったが、真っ向勝負をせず、全て“逃げ”る事で、結果的に勝ってしまったという試合だ。

テニスをやった事のない人でも、『ボレー』という言葉は聞いたことがあるだろう。サッカーでも使う“ノーバウンド”で打つ方法の名称だが、テニスでは大抵はネット間際で打つことになる。スマッシュもそうだが、ネットに詰めて、相手コートにボールを叩きつける攻撃的な戦法は、試合を有利に進めるために有効な方法の一つだ。

しかし、ネットに詰める戦法は一打が決定打になる確率も高い代わりに、ポイントを失う弱点もあるわけで、その弱点を突くのが“パッシング・ショット”と呼ばれるものだ。マッケンローとボルグの試合では、マッケンローがネットに詰めると、ボルグが鮮やかにパスを決める・・・・ボレー対パッシングショットの応酬は見ごたえ十分、ボレー・ボレーになった時なんぞは、手足に力が入っちゃって・・。

でも、実は、弱点の突き方はもう一つある。その方法は“ロブ・ショット”と呼ばれのもので、ネットに詰めた敵の頭上越えのボールを打って出し抜く方法だ。見ていて、あまりカッコいいショットじゃないし、“ずるい”イメージが付きまとう為、多用されないショットなのだ。プロの試合じゃ観客もシラケルし。(現代ではロビングとは言ってもスピンをかけた攻撃的なものになるなど、ショット自体も進化しているから評価も変わっているのだろうけど)

で、私はその試合で何をやったのかというと、相手にネットに詰められた際、全て、ロブで“逃げる”ことをやったのだ。相手からは『なんだよ、チクショー。勝負しろよぉ』なんて言葉も浴びせられたのだが・・・・。何でこんな事をしたのか?自分の試合の結果は個人戦だけじゃなく団体戦にも反映され・・・・って理由からだったのかどうか?テニス部の誰からも言われたわけじゃないし、顧問の先生からの指示があったわけでもない。理由は全く覚えてないのだが、ほぼ全てはロブで逃げた事は覚えている。

当然、相手は、前後に走り回る事になり、自滅・・・・。私の勝ち・・・・。ちぃっとも嬉しくない。いや、ちょっとは嬉しかったかも・・・・。でも、なにか引っかかっていた。だから、今でも覚えている・・・というか、切っ掛けがあれば鮮明に思い出す。
 
 
 
日本が第二次大戦へ突入してしまったのは“軍部の暴走”と片付ける人達がいる。

やっても勝ち目が無い事は最初から解っていたし、結果は変わらないんだから、尊い命を大量に犠牲にした戦争に突入すべきではなかったという理由で、軍部の暴走と否定するのであれば、一理どころか、十分、筋は通っていると思う。
(だが、もし、中国への進出・侵略も韓国、台湾の併合もしないで、戦争にも突入しなかったら、別の今日がある・・・極東の島国なんて、どこの国もいじめに来ないし、資源も豊富だから幸せに暮らせた・・・なんて理由で“軍部の暴走”を否定する、おとぎ話好きな方には、S. Conway Morris 著『Life's Solution』を読むことをお薦めする。ちったぁ、ヒトの生き物として環境への対応の仕方、短期的にも長期的にも、ドメスティックであってもグローバルであっても、マクロでもミクロでも、能動的にも受動的にも・・がわかるでしょう)

そう、一理ならずある・・・っていうのは、なんとなく解るんだけど、感情的にはなかなか腑に落ちない。結局、結果が同じなら血を流さない方が良いとする考え方は、言い方を変えれば“敵前逃亡”ってことだから、『日本人はいざとなったら逃げる奴らだ』ってレッテルを貼られ、信用もされず(今も信用されてない?)、軽蔑される事になったのではないか?なんて考えたりするわけだ。


武士たるもの、闘わずして逃げ帰るなんてのは卑怯者のする事だ!


そう、プライドの問題なのだ!男はプライドの為に闘うのだ。軍部の暴走はプライドだったのだ。

私は、やっぱりあの試合は負けてもいいから“パッシング・ショット”で応戦すべきだった。それを『作戦だよ』と自分に言い聞かせ誤魔化そうとしてもやっぱりダメ。『自分は卑怯だった』と後味が悪い。
 
 
 
でも、そういう価値観って、多分、“雄”だけなんだよなぁって、思う自分もいる。

男は負ければ文字どおり座して死を待つだけで、後世に自分の DNA を残せない。女は侵略されて陵辱されて孕まされても、自分の DNA は確実に残せる。(陵辱されて孕まされるだけで終わるだけならいいけど、さらに殺されちゃう時代だったら女も男の戦いを応援するしかないんだけどね・・・)

だから男は『もしかしたら、生き残れるかもしれない・・・』って一縷の望みにすがって“敵前逃亡”するのは“女々しい”事だと考えちゃう。女々しいが女性蔑視の発言というなら、合理的って言っても良いが、このような状況におかれた時、性の違いでリアクション(脳の反応)が異なるのが面白い。


その昔、将来結ばれる事を互いに約束した仲の良い若い男女がいたそうだ。
ところがある日、女が山賊にさらわれてしまった。男は嘆き悲しみ、意を決して生涯をその女を探す事に捧げることを決めた。
十年の月日が流れ、ある時、偶然に川で洗濯をする、かつての愛しい女を見つけた。
二人は、抱き合って喜んだが、女の顔が冴えない。訳をただすと、今、山賊と夫婦の関係にあるという。子も授かった。ささやかだけど、今の幸せを壊したくない。。。

男は諦めるしかなかった。

ってな内容の話を、どこかで読んだ気がする。聖書だったか、神話だったか、千夜一夜物語だったか、古事記のエピソードだったか、定かではないけれど、『女って、こういう生き物だよなぁ』って、妙に納得したので覚えている。


合理的に生きるのは、たしかに“知恵”のある行動だけど、本能が叫んじゃうんだよなぁ・・・・男の場合。。。。
 
 
 
って思ってたら、実は、雄は、目に見えないミクロな世界では“敵前逃亡”なんて日常茶飯事に行っているらしいのだ。

ガ━━(゚Д゚;)━━━ン!!!!!
ガ━━(゚Д゚;)━━━ン!!!!!
ガ━━(゚Д゚;)━━━ン!!!!!

精子にミトコンドリアが少なく、生体のミトコンドリアが、ほぼ、卵子由来なのは、雄の配偶子が雌の配偶子と“軍拡争い”に敗れるのを避ける為、最初から持たないように進化したのだとの説があるそうだ。

争わずに巧く共存共栄出来るなら、何も争う事は無い・・・・・って、非常に合理的で合目的だ。


---精子にはプライドもへったくれもなかったんだぁ---


精子には雄になるY染色体を持っているやつと雌になるX染色体を持っているやつがいるが、これを雄雌の戦いって言ってる訳じゃなくって、精子を雄の延長線、卵子を雌の延長線とみなし、自分の側の遺伝子を多く残そうとする争いでのことを言っている。


なるほど、だから、雄は脳みそが発達すると、昔、かなぐり捨てたプライドにこだわるのかぁ!?

ところで、その男のプライドをかけたもう一つのシンボルであるY染色体。雌雄を別ける絶対的な存在かと思いきや、消滅の憂いもあるのだとか・・・・・。伝統にこだわるのはいいけど、その根拠としてY染色体を引っ張り出すのは、墓穴を掘ることになる・・・のかもよ?!

やっぱり、世の中、つまんないプライドは捨てた方がよろしいようで・・・(薬剤師は“技術料”なんてかっこつけないで“手間賃”と言いましょう)。

(。_゜)☆\(ーー;)バキッ


ところで、冒頭の本は『ミトコンドリアが進化を決めた』です。
ミトコンドリアでテニスを思い出すなんて変かもしれませんが、私の脳みその配線はこんな感じです。で、アレはいい本です。まだ、読み終わってないのは、ちょこちょことこんな事ばっかり考えちゃってるからでもあります。ってゆーか、最近のエントリーはこの本が切っ掛けになっていることが多いです。

というわけで、『ミトコンドリアが進化を決めた』の書評ってことで!!

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何故、上巻で話は終わったのか?

20080108_misunderstanding過日、WebMaster's impressions に宮部みゆきの『RPG』ネタでエントリーしたのだが、上巻で話が終わってしまって、『なんだこりゃ?』って思って、本のカバーを外してタイトルを見直してみると、“上巻・下巻”なんて言葉は見当たらない?!って事件?があった。

『えっ!!どういうことだぁ??』って思ってたら、昨日、謎が解けた。

何の事はない、私は桐野夏生の『OUT』を読んでいる気になっていたのだ。本棚にある『OUT』の上巻・下巻を見て納得した。『OUT』の上巻を手に取ったつもりで、その隣にあった『RPG』を取ってしまい、良く確かめもせず皮製のカバーをかけてしまって読み始め、登場人物の性格描写に違和感を感じエントリーするにあたり、『タイトル何だったっけ?』って事で見開きで確認して、、、『RPG?ん、そうだったかな??』って、さして気にもしなかったので、『RPG』の上巻を読んでいる・・・なんて間抜けな事を書いてしまったのだった。

というわけで、今朝から『OUT』を読み始めている。

『RPG』はネタばれになると全く面白くないから、これから読む人の為に何も書かないで置くけど、解説を読んで、なるほどと思ったことを書いてみたい。

この『RPG』は清水何某(苗字も違うかも!こんな作家知らないから)って人が解説を書いてるんだけど、それを書くに当っての宮部みゆき氏とのやり取りの裏話が面白かった。宮部みゆき氏は『司馬遼太郎風に書いてね!』ってお願いしていたのだそうだ。

解説を読み始めて、『なんか、難しそうに大袈裟な表現で枝葉末葉まで丁寧に書く人だなぁ』って感じていたから、この種明かしに『なるほどぉ!!』とニヤリとしてしまったのだ。

清水何某って人は、いろんな作家の作風のパスティーシュが得意な人なんだそうだ。それで、宮部氏は『司馬遼太郎風に書いてね!』って事になったんだと。『なんか、歴史上の偉人になった気分になれるから』と。


私は、ただの一度も司馬遼太郎氏の作品を読んだ事が無い。中学生の頃、毎日新聞の連載で『翔ぶが如く』(だったかな?)をを眺めた事はあったけど、難しそうな文体と、全く興味の無かった歴史物ゆえ、チャンスはあったけど読むことは無かったのだ。

結局、歴史を取り上げた小説っていうのは“思想”が入り易く、私みたいに歴史の疎い者がうっかり読んでしまうと“洗脳”されてしまう事があるので、多数の作家が書いた歴史物を全て読む時間も根性も無い私は、多分、これからも司馬遼太郎氏の作品を読むことはないのだろうけど、この『RPG』の解説で“司馬遼太郎の作風”ってのが、誰しもがそんな風に感じてるんだぁって解って(解ったつもり)、妙に得した気分にもなったのだ。


さて、桐野夏生の『OUT』を今朝から読み出したところなのだが、一昨日、Amazon で読みたかった本を注文したので、小説の類は、またこれで一旦、中座である。

ニック・レーン: ミトコンドリアが進化を決めた

シャロン・モアレム: 迷惑な進化―病気の遺伝子はどこから来たのか

スティーヴン・ジェイ・グールド: 神と科学は共存できるか?

他。

ベタベタな理系人間の私は、特定の(人の)解釈だけを受け入れる事が生理的に嫌いで、しかも浅い知識で口にするのも自己嫌悪に苛まれる。従って、読む本の傾向は、勢いこんなのばっかりになってしまう。

《ミトコンドリアが進化を決めた》なんぞは、妻に『なんで、そんなにつまらなそうなもの買うの?』、『ミトコンドリアなんて、どうだっていいじゃない?』などと罵られながら、クリックしたりして・・・・。

そりゃ、私だって司馬遼太郎氏の作品も読んでみたいけど、膨大な著書を読破する前に、ちょっとでもその歴史観を知れば何かしら口にしたくもなり、口にすると自己嫌悪するだろうなぁって、なんとなく感じるから読まないでいるって所もあるのだ。それに、作品が膨大ゆえ、今読みたい優先順位から読めないってのもあるし。

私の司馬遼太郎氏の作品のイメージってのは、日本人の歴史観の教科書だみたいなところがあって、数多くの人に支持されているって聞くにつけ、『私こそは正しい』みたいな事を言う者への違和感を感じてしまって、偏見があったんだけど、司馬遼太郎 - Wikipedia を見てみたら、【歴史観への批判】【実証性(ないし創作的行為の混入)への批判】などが書いてあり、盲目的に支持されてばっかりじゃないんだぁと、逆に親近感を覚え、偏見が取れてしまった。


今回、桐野夏生の『OUT』を読もうと思って、うっかり宮部みゆきの『RPG』を読んでしまったワケだか、司馬遼太郎氏に注意が向き、氏の歴史観に対する印象も変わってしまうなんて、なんか不思議な気分だ。

間違いで手に取らなかったら、宮部みゆきの『RPG』は読まなかったかもしれないんだから。

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N-アセチルシステイン~統合失調症治療に便益

20071126_investigationN-アセチルシステインと聞けば、職業柄、アセトアミノフェン中毒を思い浮かべる。安全と言われている薬でも肝障害を起し死に至る副作用として、記憶にすり込まれているからだ。

一般の方の記憶に新しいところでは、埼玉県の某スナックが舞台になった“風邪薬殺人事件”が挙げられるだろう。アセトアミノフェンの有害作用をお酒と併用することで“倍増”させた素人らしからぬ殺人事件だ。

というわけで今回の知見からは、統合失調症治療にN-アセチルシステイン治療が普及したら、統合失調症の人を風邪薬(アセトアミノフェン)で殺せないジャン!!とまことに不謹慎な妄想を抱いてしまったので、エントリーしてみました。


N-アセチルシステイン~統合失調症治療に便益

〔ウィーン〕メルボルン大学(オーストラリア・メルボルン)精神医学のMichael Berk教授らは、一部の肺疾患に対して粘液溶解薬として投与されるOTC薬のN-アセチルシステイン(NAC)は統合失調症治療に便益があると第20回欧州神経精神薬理学会で報告した。


病因に関与の可能性も

 Berk教授は「グルタチオン前駆体であるNACに便益が見込めるという事実は、グルタチオン不足が統合失調症の病因に関与していることを意味しているのではないか」と述べた。

 同教授らは、統合失調症患者140例を対象に、現在使用している向精神薬療法に対するNACの上乗せ効果を検討した。治療効果は臨床全般印象(CGI)重症度と陽性・陰性症状評価尺度(PANSS)により評価した。

 対象者のうち、69例を実薬群、71例をプラセボ群に割り付けた。111例が24週の試験を完了し、61例が中断後に診療を受けた。このような自然減は統合失調症試験では典型的であるという。

 24週までに、実薬群ではCGI重症度が平均0.4ポイント減少したのに対し、プラセボ群では平均0.2ポイント減少した。PANSS陰性症状サブ尺度は実薬群のほうが平均1.8ポイント低かった(P=0.018)。しかし、治療終了後にこれらの差異は消滅した。

 興味深いことに、実薬群はSimpson AngusスコアとBarnes-Akathisia総合スコアなどで錐体外路系症状を検討したところ、改善が見られた。 3 例の重度有害イベントは入院で、治療不履行と関連しており、いずれもプラセボ群で生じた。

 同教授は「この結果、NACは統合失調症の症状を一部改善したことから、病因にグルタチオン不足が関与していることが示された」と述べ、「今後、被験者の数を増やしてさらなる研究を行う必要がある」と付け加えた。


昨夜、北野たけしの『点と線』はみそこなってしまったのだが、HDD レコーダに録画してあるので暇になったら見ようと思っている。で、私は推理小説やミステリーは結構好きな方なのだが、トリックというかポイントとなっている所に、専門家じゃないと知らないようなマニアックな“事情”があると、釈然とはしないものの、なにかそういうのを知っていると『カッコイイ』って子供の頃から感じていた。そういうのが、よく言えば知的好奇心旺盛、悪くいえば“知らないと癪に障る”っていう今現在の性格に至ったのかもしれない。

で、そのマニアックな“事情”っていうのが、サイエンスに関するものだったりすると、時間の経過と共に“陳腐”になっちゃうのは、よく聞くところだ。

先の松本清張の『砂の器』、青年の暗い過去が動機となったわけだが、今ではそれが“癩(らい)”では『???』となってしまうのだろう、スマップの仲居君が主役を演じた時には、病気そのものが変更になっていた。

今回、思いついた“風邪薬殺人”と“統合失調症”と“N-アセチルシステイン”の組み合わせは、旬なうちに小説のネタに使いたいところだが、いかんせん、私には小説を書く能力の欠片も無いので、勿体無いが、しまっておくしかない。(統合失調症治療にN-アセチルシステイン治療が普及しても、そんな事は専門家しか知る由も無いから、ネタになるのだ!それが証拠に、一般の方では、今現在の統合失調症の治療薬ですら知っている人は居ないはずだからね)


ところで、医師で小説を書く方は多いが、薬剤師のモノ書きってのは、とんとお目にかからない。化学をやってもネタにならないからなのか?それとも文学的センスの全く無い人間が薬剤師になるからなのか、その辺はよくわからないが、私の知る唯一の薬剤師作家の高田崇史氏の小説に、乳棒と乳鉢ネタが登場する。(タイトルは忘れた・・・が百人一首とか六歌仙とか七福神とか、そんなのばっかりの作家だ)

大学薬学部の実験室で起きた殺人事件で、乳棒が床に落ちていたのを発見した主人公が『薬剤師だったらこんな事にはならないはず・・・・』みたいな推理をするシーンである。

・・・・でも、そんな事がわかっても、ちぃっとも嬉しくないのは何故だろう?

やっぱり、知的な面を垣間見せるには薬理学や毒物学を駆使しなくっちゃね。アメリカのドラマ“CSI”でも『こういう事が出来るのは、化学を学んだものか薬剤師だ!』みたいに科学捜査官に叫ばせるくらいの内容が欲しいぞ!!


というわけで、“N-アセチルシステイン”ネタ、どうでしょ?(しつこい?)

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