書籍・雑誌

April 22, 2011

【デュシェンヌ型筋ジストロフィーに対する PRO051 全身投与】で思い出すこと。

20110422_y_miuraついに、スプライシング・スキッピングを機序にした医薬品が登場する。。。いや、フェーズⅠだから、まだ、ものになるかどうか、わからないけど、、、、感慨深い。

私が、初めて、この理屈(スプライシング・スキッピングっていう生理現象)を知ったのは、1999年のことだ。当時、定期購読していた雑誌「遺伝子医学」(2003年に廃刊)に掲載された症例の報告でだった。

《ジストロフィン遺伝子のナンセンス変異にもかかわらず、エクソンのスキッピングにより Becker 型ジストロフィーとなった症例》松尾雅文(神戸大学医学部付属医学研究国際交流センター教授:当時)氏の書いたものを読んで、、、、


「衝撃的・・・・でしたね」


って。

なんか、陳腐なリポートもの番組のコメントみたいになっちゃうけど、こういう仕組みがあるんだぁ・・・って、青天の霹靂とは、この事・・・・みたいなっ!感動を味わった。

今、「遺伝子医学」Vol.3 No.2 を書棚から引っ張り出して、読み返している。

この雑誌は、三浦義彰先生(元千葉大医学部教授)と親しく?させていただくキッカケとして、一役、買ってくれたものでもあるのだ(写真の本も先生が直々にくださった)。

初めて、三浦義彰先生にお目にかかったのは、先生が、患者さんとして処方箋をお持ちくださったときのことだ。そんな超“偉い”方だとは、露知らず、、いつも通り、調子よくポンポンと薬の説明を終えたところ、先生はおもむろに「ところで、○○○は、○○には効きますか?」と質問をされたのだった。「いや、私も医者のはしくれでして・・・」と。その時は、、、、

---おじいちゃん先生だから、知らないのかな?---

なんて、不遜なことを感じてしまって、、、、


その後、お越しいただくたびに、いろいろと声をかけてくださって、、、、

「見てもらっている医者は、私のお弟子さんでしてね」なんて話も。。。

---うん?お弟子さん?唄とか三味線とか茶道のお師匠さん?---


ある時、ふと、何の気なしに“医学のあゆみ”の最後のページを眺めていたら、、、、見覚えのある名前を見つけ、、、、その次にいらっしゃったとき、恐る恐る聞いてみると、、、、、。

そんなことがあってから、「遺伝子医学」に、先生の甥にあたる方(大学の理学部の教授)の寄稿を見つけ、そのページをお見せしたら、ご存知なかったらしくて「ありがとう」って。。。

デュシェンヌ型筋ジストロフィーに対する PRO051 全身投与

Systemic Administration of PRO051 in Duchenne's Muscular Dystrophy

N.M. Goemans and others


背 景

デュシェンヌ型筋ジストロフィーで、関連する遺伝子変異を有する患者へのアンチセンスオリゴヌクレオチド PRO051 の局所筋肉内投与により、ジストロフィン遺伝子の pre-mRNA スプライシング時にエクソン 51 のスキッピングが誘導されること、また筋線維膜でジストロフィンの新たな発現が促進されることが報告されている。今回の第 1~2a 相試験の目的は、PRO051 全身投与の安全性、薬物動態、分子的・臨床的効果を評価することである。


方 法

12 例を対象に、PRO051 の投与可能な 4 用量(0.5 mg、2.0 mg、4.0 mg、6.0 mg/kg 体重)で、それぞれ 3 例に腹部皮下注射で週 1 回、5 週間にわたり投与した。RNA スプライシングと蛋白量の変化を前脛骨筋で 2 回測定した。全例をその後 12 週間の非盲検延長相に登録し、6.0 mg/kg/週の PRO051 を投与した。安全性、薬物動態、血清クレアチニンキナーゼ値、筋力・筋機能を評価した。


結 果

もっとも頻度の高い有害事象は投与部位の刺激症状であり、延長相では、軽度であるが程度の異なる蛋白尿と、尿中 α1 ミクログロブリン濃度の上昇が認められた。重篤な有害事象は認められなかった。PRO051 の血中消失半減期は平均 29 日であった。2.0 mg/kg 以上の PRO051 により、検出可能で特異的なエクソン 51 のスキッピングが誘導された。治療後の生検で評価した新たなジストロフィンの発現は、12 例中 10 例の筋線維の約 60~100%で認められ、対照の健常筋では最大 15.6%まで用量依存的に増加した。12 週間の延長相後の 6 分間歩行試験で、ベースラインの 384±121 m から平均(±SD)35.2±28.7 m の改善が認められた。


結 論

デュシェンヌ型筋ジストロフィー患者への PRO051 全身投与により、用量依存的な分子的有効性が認められ、12 週間の延長治療後の 6 分間歩行試験でわずかな改善が得られた。(Prosensa Therapeutics 社から研究助成を受けた。Netherlands National Trial Register 番号:NTR1241)


(N Engl J Med 2011; 364 : 1513 - 22.)
Copyright(C)2011 Massachusetts Medical Society.

http://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa1011367


インターネットが、生活というか仕事の中に溶け込んで、なくてはならなくなってきたことも関係があるのかどうか、、、この手の雑誌は、どんどん、発行のペースが落ちたり(MMJも月刊→季刊になったし)、廃刊になったりしている。

情報だけを得る目的なら、それでもいいんだけど、なんか、ちょっと、寂しい。中山書店から発売になったがん医学の総合季刊誌『CRC』も廃刊になっちゃった時も、やっぱり、がっかりしたっけなぁ。


話を戻して、その読み返している「遺伝子医学」だけど、本の上のほうが、茶色に変色し始めている。

この変色の原因は、もちろん、“光”と“酸素”なんだけど、、、何かに似てる?

そう、電離放射線の生体への影響ですね。

「放射能は染る」みたいな、日本語としても意味不明な風評被害を撲滅するために、日々、日常の風景の中にあるものに喩えを探している、、今日このごろ。。。。


さて、広義の遺伝子治療つながりで、もう一ついくけど、、、【がん細胞「老化」させ抑制 広島大、マイクロRNAで】を読んで、、、、、

いやー、日本語は難しいですね。

共同通信社の記事を見て、痛感しました。言葉って、自分の頭の中で考えたり感じたりしたことを、他の人に伝達するツールなんですよね。それは、理解しているつもりなのに、自分の頭の中では、言葉の定義を“瞬時”に切り替えちゃうもんだから、その表現が、適切でない。。。。っていうより、自分では、その不適切さを気付かないんですよ。

“老化”って言葉は、なんども、このブロクで使っているのですが、その意味を定義しないで、その都度、文脈や前後の言葉で、無意識に使ってるんですねぇ・・・。

“老化”って嫌な言葉でもあるワケだから、デリカシーを欠いてしまったかも・・・・って。

思いました。。。。普段は、こんな反省みたいなこと、しないんですが、、、、なんだか、地震の影響なのかもしれません。。。。。

というわけで、私、この記事読んで、、、仕事で“細胞”を扱っている人、または、生命現象を“細胞”レベルからのボトムアップで理解している人と、一般の人では、受ける印象が、ずいぶん違うんでは???

それに気付いたとき、ふと、自分の文章も・・・・・って、ドキってしたのでした。

がん細胞「老化」させ抑制 広島大、マイクロRNAで

2011年4月19日 提供:共同通信社

 細胞や血液などに含まれる「マイクロRNA」と呼ばれる物質の一種に、乳がんと子宮頸(けい)がん細胞を「老化」させ、がんの増殖や転移を抑える働きがあることを広島大の田原栄俊(たはら・ひでとし)教授(細胞分子生物学)らのチームが突き止め、18日付の米科学誌に発表した。

 田原教授は「マイクロRNAは生体内でつくられる物質で、既存の抗がん剤に比べ副作用のリスクが低い。次世代の抗がん剤としての活用が期待できる」と話している。

 マイクロRNAは、細胞の増殖や分化などさまざまな生物現象の調節に関係していると考えられている。田原教授は、通常の細胞が分裂しなくなり老化するにつれて、いくつかのマイクロRNAが増加することを発見。このうち老化せずにがん化した細胞で減少していた「miR22」に着目した。

 培養された乳がんと子宮頸(けい)がんのがん細胞にmiR22を加えると、老化が進み、増殖が抑えられることを確認。マウスを使った実験でも乳がんの転移を抑制することが分かった。

 細胞の老化は、がん化を防ぐための生体の防御機構とみられている。田原教授は「何らかの要因で、細胞内のマイクロRNAが減少して老化が妨げられ、がん化を促すと推定される。miR22を投与することで老化のプログラムが再開され、がん細胞の増殖が抑えられた」と分析している。

※米科学誌はジャーナル・オブ・セル・バイオロジー電子版


一人の人間としての“老化”と細胞レベルの“老化”は、はっきりいうと、逆の現象です。っていうか、人間は老化すると病気としての“がん”になりやすくなるんだけど、がんって、細胞レベルでは“幼若化”って定義されます。

反対に、がんじゃない細胞は“分化した細胞”。

未分化な細胞を分化させる、、、、、共同の記事では、この分化させるを“老化させる”って言ってます。(いわゆる分裂寿命を全うさせるって意味もあるんだと思うけど)

放射線障害のメカニズムは老化と同じ』で書いてる“老化”は一人の人間としての“老化”すなわち、“加齢”のことです。

10年も本棚に積まれていると“日焼け”するのと同じ、“加齢”です。


ということで、これからは、言葉を正しく使うために、“老化”は“禁句”にすることにします。やっぱ、“加齢”って言葉があるんだから、使わなくっちゃ。

老化っていうのは、曖昧すぎて、ダメだね。 放射線、放射性物質、放射能をごっちゃに使うのと同じだよ。

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April 06, 2011

フクロマウスって知ってる?--- ある意味、書評だったりする

20110406_pizza_deliveryオーストラリアにいるフクロマウスは、12時間にわたる激しい交尾の後、オスは衰弱し、疲れ果ててついには死んでしまうという。

それは、去勢すれば防げるのだが・・・・・。

悲劇か喜劇かはともかく、“劇的”な死に方なのは間違いない。

しかし、フクロマウスにとっては、劇的に死ぬか交尾せず長生きするかで迷うものはいない。全ての個体は、交尾を選択する。


人間だったら、どうだろう?

ぼんやりと、そんなことを考えた。

他の国の人のことはわからないけど、日本人なら、交尾をした後、死なない方法を考えるんじゃないかな。その為に、残りの人生の全てを、二度と交尾せず、病院通いに費やしたとしても。。。


ある本を読んでいて、ふと、ある記述が目にとまった。それは、、、

「子供の頃は、時間の経過が早く、大人になると、どうして遅くなるのだろう?」というものだった。

え?  子供の頃が遅くって、大人は早いの間違いじゃないの?

最初は、そう思った。でも読み進めていくと、間違いではない。

著者は、イギリス人だ。イギリスでは、子供の頃は、日々、退屈で、大人になると、毎日が楽しい・・・・、そういう理由らしい。

楽しい時間、充実した時間を長く感じることは、日本にいて、日本人の私でもわかる。私にとっては、年に数えるほどの土曜日と日曜日の連休に一泊旅行に出かける、、、そんなとき、それを実感する。

家族全員を、朝、4時にたたき起こし、車に詰め込む。500km圏内なら、午前中には目的地に到着している。午後、観光地をめぐり、夕刻から温泉に入り、夕食では軽くアルコールを嗜み、リラックスタイム。その後、もう一度、温泉に漬かり、、、、、。

翌日も朝早くから行動を開始し、目いっぱい遊んで帰路につき、クタクタになって帰宅すると、、、、あぁ~、疲れたぁ~、長い二日間だったなぁ~~~と。


日本人の大人たちは、人生の殆んどの時間を、楽しむこともなく、感動することも、記憶に残るようなこともなく、端々と、日々、変わりなく過しているって事なのだろうか。


イギリス人は、違うのか?日々、長く感じるほど、楽しい時間を送っているというのか??イタリア人なら、わかるけど、イギリス人もそうなのか???


まぁ、イギリス人のことは、どうでも良いけど、日本人、悲しすぎないか?

まるで、去勢された“フロクネズミ”だ。世界一、長生きはするんだけど。。。


昨日、ビデオにとっておいた「ビート」なるドラマ(WOWOW)を見た。

銀行の粉飾決算疑惑をモチーフにした社会派のドラマと思ったら、違った。人間のドラマだった。

このドラマの中で、主人公の一人、緒方直人演じる警視庁捜査一課の刑事の言葉、「人の親である前に、一人の刑事ですから」というのが気になった。奥田英二演じる捜査二課の刑事との絡みのなかで発せられる言葉なのだが、、、、、

これって、日本人の大人の感じる時間が、子供の頃より早くなる原因なんじゃないかと。。。。黙々と仕事ばかりをこなしてるんじゃ、時間の経過は早い。。。よなぁ。

なんで、こんな“滅私奉公”が価値のあることになっちゃったんだろう? 日本?

全ての国の事情を知っているわけじゃないけど、日本のドラマや映画以外で、自分の生活より仕事を優先させるシーンを見たことがない。。。

映画アルマゲドンの中では、ブルース・ウィリス演じる主人公が、人類の為に犠牲になるシーンがある。。。が、これは、仕事とは関係ないだろう。大きな意味での互恵的な利他行動のひとつだ。

日本でも、今、いくつものドラマが生まれている。

原発事故現場に向かう人達のドラマだ。

一つだけいえるのは、自らの命を犠牲にした人、犠牲にする覚悟を決めて行動した人達は、その瞬間、充実した長い(長く感じる)時間を過すことだろう。

“劇的”は、長く感じる。。。多分。。。アインシュタインの相対性理論を持ち出すまでもなく。周りの人の時間の感覚とは、あきらかに、違うんだと思う。


さて、お気づきの方もいらっしゃると思うが、、、最近の“ネタ”は、ニック・レーン著《生命の跳躍――進化の10大発明》から頂いている。

この本は、サイドバーに貼り付けてる【私的・面白かった度】で ★ 5つ 付けてるけど、10段階の評価が出来るなら、★★★★★★★★★★ だ。ノータイムで。

それほど、内容は素晴らしい。

生命に対する洞察力は半端じゃない。


ということで、ネタをお借りして、もう少し続けたい。


あなたは、『“死”は生物にとって利益がある』と聞いたら、なんて思うだろうか?


進化生物学の世界で、コンセンサスが得られつつある説によると、、、、“死”のおかげで生物は進化したということだ。

“死”がなければ、生物はヌルヌルした単細胞の集まり以上の存在にはありえなかったと。

“死”が細胞の“分化”を促進したんだと。

というわけ(詳しく知りたければ、読むことを薦める)で、細胞の分化なくして、ヒトは存在し得ないのだが、究極の分化が、生殖細胞であると(というか、体細胞は生殖細胞の為に“生き”そして“死ぬ”のである。ドーキンスの利己的な遺伝子の言い方を変えたようなものだと思えばよい)。生殖細胞とその他の細胞とを括ることによって、生命現象や老化、病気の真の姿が見えてくる。

そうすると、、、現代の“がん”や“糖尿病”、“アルツハイマー病”などに対するアプローチは、、、、、、ってこと。いや、今までの研究の積み重ねがあったから、そういうこともわかったわけで、現在の方法をすべて否定するわけじゃないんだけど、、、、、、。

そう、現代医療は、いつも私が書いてるように、不可避な結果に対する“慰め”的な位置づけでもあるんだから。。。。医療の出発点が、治療を目的とした“シャーマニズム”から出発しているから、しょうがない、、、っていうより、当然って言い換えてもいい。つまり、生物学(進化学)からの“視点”が、医学(というより医療学)に欠落しているからなのだろう。

医療では“死”は単なる“敗北”なのだが、、、科学が“死”を扱うと“死”の印象が変わってくる。まるで、宗教のようであり、哲学のようだ。この場合の“宗派”や“学派”は異なるんだけど。


面白いね。。。。

科学もこういう意味では“ニューマニズム”なんだよね。(ヒューマニズムを“善い行い”とか“心温まる行為”を尊重することなんて解釈している人には違和感あるかもしれないけど)

やっぱ、科学には人間主義思想が流れてるんだよね。


ということで、ストップウォッチで測った“寿命の時間の長さ”に一喜一憂する、現代の日本人って?

フクロマウスは、時計も暦も持っていなくて、幸せなのかもしれないなっ。暦を数え、時間を計って、他人と比べたりしないから。


p.s.《生命の跳躍――進化の10大発明》を読む時間のない人に、ひとつ、耳寄りな情報。
カロリー制限が健康で長寿の秘訣、、、なのは、正しいのだが、これは、生殖年齢に達する前から、コツコツと続けていくことに対する“ご褒美”だ。すでに、生活習慣病に罹患していて、尚且つ、高齢の人には、全く意味は無い。あっ、健康は取り戻せるかもしれないけど、長寿は叶わないってこと。

現代の科学(進化生物学)は、人生「太く短く」あるいは「細く長く」ってのが真理であることは証明できたけど、「太く長く」する方法は、発見できてないみたいだよ! どうも、無いみたいだけど・・・。

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February 18, 2011

PGC-1α と 老化 が繋がった

20110218_applause糖尿病やパーキンソン病などで“因果関係?”として“発見”された PGC-1α だが、テロメアとの関係(テロメア–p53–PGC軸)が“発見”されるに及んで、オレには、なにか生命の根幹にかかわる、、大袈裟なパラダイムが見え隠れしている、、、気がしてならないのだが、、、、

糖尿病とパーキンソン病を繋ぐもの』で、ご登場願った PGC-1α だが、今度は、テロメアの機能=細胞分裂寿命=染色体末端の保護(染色体の融合を防いでいる)と間接的に繋がってるってのが、見つかったんだから、「驚き、桃の木、山椒の木」だぜっ!

いままで、細胞の分裂寿命としてしか見ていなかった“テロメア”が、いわゆる現象としての老化=新陳代謝の衰えに関与しているって事なんだから、「胸のつかえが一気にとれた」って感じだ。

いや、まだ、よくわかんないところはアル。

ヒトが死を迎えるとき、組織(細胞)によっては、分裂寿命をかなり残しているということだ。例えば、神経細胞や心筋の細胞などは、生後、殆ど、リプレースされない。分裂はしないわけだから、テロメアは残っていると思われる。

なのに、どうして、死ぬんだろう?

もしかして、一番脆弱な部分の死によって、ヒトとして“死”が誘導されるのか?

脳や心臓の細胞は“細胞の分裂チケット”を、まだ、たくさん持っているんだから、これらの組織(細胞)から、テロメア–p53–PGC軸 のシグナルは発せられないはずだ。もしかしたら、p53 → PGC へのシグナル伝達経路には、液性の“何か”があるんだろうか?それが細胞外に漏れ出し、エンドクリン的に血管を経由して? さもなくば、神経系を介して?

細胞:老化の軸となるテロメア/ミトコンドリア

Nature 470, 7334 (Feb 2011)

ミトコンドリアと、染色体の末端にある保護キャップのテロメアとの間に機能的な結びつきがあることが最近明らかになり、この両方が老化現象にかかわっているのではないかと考えられるようになった。

今回、マウスの造血幹細胞と心臓、肝臓の組織のトランスクリプトーム(全mRNA)の分析が行われ、テロメアの機能異常と臓器の機能障害、またおそらくは加齢に伴う病気とを関連付けるテロメア–p53–PGC軸の存在が示された。

テロメア機能異常のマウスでは、p53を介した細胞の増殖停止が起こるようになり、さらに、代謝過程やミトコンドリアでの生理過程の主要な調節因子であるPGC-1α、PGC-1βが抑制される。その結果、ミトコンドリア量が減少してミトコンドリア機能に異常が生じ、ATP生産の低下、糖新生の阻害、心筋症を引き起こし、活性酸素種が増加する。

Articles p.359
News and Views p.342


ミトコンドリアといえば、《ミトコンドリアが進化を決めた:ニック・レーン著》が有名だが、いつぞや、アマゾンをブラブラしてたら、他の氏の著書《生と死の自然史―進化を統べる酸素》、《生命の跳躍――進化の10大発明》を見つけていたのだ。

というわけで、本日、アマゾンに発注することにした。(と、こりゃ、どうでもいいことだけど)


さて、今、“分裂”という言葉でイメージ出来るのは、、、民主党。


で、ふと、思った。。。。


テロメアがいっぱい残っているって間は、染色体が融合したり、転座したり、、、と(染色体が)異型なものになるのを防いでいるわけだが、、、残り少なくなると、、、、どこかとくっ付いたりして、、、、細胞自体の生存を脅かすことになる。

テロメアがいっぱいある政党は、政党内のグループが、他とくっ付いたり、離れたり、、、、ってしない。きちっと、それぞれの役割をこなしており、政党として一枚岩の上にいる。

だが、、、、何処かのグループから誰かが抜けるだとか、誰かを切り離すだとか、、、、これは、テロメアが足りなくなっているようなもんだ。


もうすでに、p53 は機能し始めている。。。。p53 は、、、オザワ イチロウ。

“おバカさん”な思想家が党内にいなければ、、、染色体、遺伝子の修復は可能だったけど、、、、それは、無理。。。後は、老衰を具現化するか、はたまた、テロメラーゼが活性化して、、、、癌化の道を選ぶか・・・・・・。

この場合、テロメラーゼは、、、数合わせの理論を推進する者、、、、だ。これが活発に活動を開始しないか、、、ウォッチが必要だね。


癌化すれば、、、、日本は“死”だけど、、、、自死すれば、、、楽しい総選挙が待っているよ。

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April 09, 2010

書評なのか?:歴史の方程式―科学は大事件を予知できるか

20100409_reno宇宙の法則を理解するには相対性理論が必要だし、原子以下の極小世界の振る舞いは量子力学を知らなければ予測できない。しかし、普段、われわれが地上で生活するうえでは、この二つは知らなくても、なんら不利益はない。


人の経験や学習は、普段の生活レベルでの出来事に対処するためのものだ。そして、それは、有用だということを経験的に誰でも知っている。

だから、人は歴史を振り返れば未来は制御できる、、、って勘違いしてしまうのだろう。

戦争や世界恐慌、大企業の倒産、飢饉、、、などなど、大きな出来事はニュートン力学では宇宙の法則が語れないように、その挙動を予測できる人はいない。それは、普段の生活において無意識に利用している法則(経験や学習)が当てはまらないからだ。

宇宙に相対性理論、極小に量子論が必要なように、それには非平衡物理学が必要になる。

この概念、それ自体はかなり簡単だ。簡単なものを、さらに、具体例を示しながら解説してるのが、この『マーク ブキャナン著 歴史の方程式―科学は大事件を予知できるか』だ。


ところで、以下で紹介するのは、身の回りの法則である。

真似をするのは有益である

It Pays to Be a Copycat

新しい研究により、仮に全く何の知識もない新しい環境に移るとするならば、自分自身の考えを試すより他者の行動を真似る方がおそらく短時間で生き残るすべを習得できるということが示された。

「社会的学習」は実際に広く行われており、一般的に人間の成功を握る鍵であると認識されている。

しかしLuke Rendellと共著者らによると、他者の模倣が益をもたらす理由や最善の模倣方法については依然として謎である。

たとえば、模倣によって試行錯誤型学習に伴う手間やリスクは回避できるものの、その一方で、環境に急激な変化や予測不可能な変化が起きた場合には、入手した情報は時期遅れということになる。

RendellらはRobert Axelrodの有名な実験(Science、1981年3月27日号掲載)を手掛かりにコンピュータトーナメントゲームを作成した。

そのトーナメントではプレーヤーは社会的学習とその他の戦略を組み合わせてゲームの必勝法を提案する。

ゲームは100のアームのついたスロットマシンに似ており、プレーヤーは複数のラウンドの間に状況の変化にしたがって「新たな手法を採る」(試行錯誤型アプローチ)、「観察する」、「利用して利益を得る」(実際に報酬を受けられる唯一の方法)を選択できる。

ゲームに勝てた戦略では専ら社会的学習に依存し、また、どれほど前に入手した情報であるかという点で情報を検討していた。

これこそ人間が他の動物よりも得意とする部分である。


"Why Copy Others? Insights from the Social Learning Strategies Tournament," by L. Rendell; L. Fogarty; K.N. Laland at University of St. Andrews in St. Andrews, UK; R. Boyd at University of California, Los Angeles in Los Angeles, CA; D. Cownden; T. Lillicrap at Queen's University in Kingston, ON, Canada; M. Enquist; K. Eriksson; S. Ghirlanda at Stockholm University in Stockholm, Sweden; K. Eriksson at Malardalen University in Vasteras, Sweden; M.W. Feldman at Stanford University in Stanford, CA; S. Ghirlanda at University of Bologna in Bologna, Italy.


大きな出来事の予測は誰にとっても不可能だ。身近な経験や学習が功を奏するなら、人の歴史に“戦争”の二文字は無い。これは、生物の本能だし、自然の摂理(物理学)に依存し、学習能力とは関係ないのだ。。。が、、、では逆に、この経験がものを言うっていうのは、一体、どれくらいの“規模”までのことを言うのだろう??

世の中を見渡せば、一番小さな単位である“家庭”すら、自分の意思とは別方向に向かうことがある。誰だって、結婚するときから「家庭を壊そう」なんて考えている奴はいない。でも、壊れるのである。

この意味では、結局、“経験や学習”は自分の行動以外に影響を与えられるものではないらしい(上の論文でもしかり)。“経験や学習”をしたはずの“再婚”どおしの夫婦だって、同様なんだから、地震のごとく予測は困難だ。

この経験が役に立たない理由は「歴史の方程式―科学は大事件を予知できるか」を読めば理解できるのだが、かといって、読んでも「じゃ、どうすれば良かったのか?」の答えは得られない。


家庭の崩壊に影響を与える因子を特定すれば、、、と言うけれど、、、、はっきりいって、この段階、すなわち、人はすべてを把握しているわけではない。。。言い換えれば、この特定の因子を、人は、未だに、出し尽くしておらず、あぶりだしている段階、、、、とも言える。多分、未来永劫、新たな組み合わせで新たな問題が発生するのだろう、、、

これを人は、「学習しない」「歴史に学ばない」なんて言い方をするんだけど、厳密に同一の条件で結婚生活なんて再現できないのだから、この言葉は、ナンセンスである。

たとえ、自分の行動を“学習”により修正したとしても、“相手”との“組み合わせ”により発生する“因子(軋轢)”は、予測不能だからだ。

結婚生活=家庭を破綻させた経験から“学習”し、二度と同じ繰り返しをしない方法は、唯一、結婚しない=家庭を築かないことだけだ。

これなら、完璧!

でも、それが、その人にとって正しい選択かどうかは、また、別の問題。幸せか不幸かの問題と正しいか正しくないかは別問題だ。さらに、家庭を築くこと自体が幸せと定義する事にも、問題がある。。。(が、ここまで言うと別の領域に突入してしまう)。

それに、家庭を崩壊させないまま維持していると、緊張が高まり、崩壊するときは、大地震になる可能性もある。


規模と頻度は“羃乗則”に従う・・・・これ、唯一、正しいのだ。


話は変わるが、このように絶対“予測不可能”な未来を予測するのが、政治家の仕事なのだが、ウインストン・チャーチルが言ったように、必ず外れる予測に、後知恵でもっともらしい説明をつける資質も、政治家の必要な資質らしい。

これは、政治家だけでなく、小説家にも必須の能力だろう。後知恵でのもっともらしい説明は。

ただ、人は、この“後知恵でのもっともらしい説明”が大好きなのだ。精神安定作用があるのは、「歴史は、癒しを求める人の心が作り出した」で考察したとおり。

大好きなだけでなく、身近な経験が功を奏することが多いので、ついつい、人と人との関わりの中から発生する軋轢にまで言及できるという勘違いをしちゃうんだろう。


この本は、会社が倒産した人、リストラされた人、家庭崩壊した人、などなど、身の回りに不本意な状況が発生している人にお奨めする。特に、文系の人に。不本意な結果に、意味の無い“後知恵の説明”を付けるより、非自己とのかかわりから生じる問題は地震のように誰にも予測は不可能なのだと、科学的(物理学)に言ってくれる人(本)も必要だと思うから。

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March 09, 2010

男性の新生児の包皮環状切除術:明確な推奨の時?

20100309_phimosis一般的な日本男児は、週刊誌などで見かける“包茎手術”の広告で、「自然にムケない人もいるんだぁ」と知る事になる。。。。

私自身は二次性徴が始まった頃から、だんだんとムケ始めたのだが、それは、何かイケナイ事、悪い事、病気なんじゃないのかという不安を伴っていた。

そして、奈良林祥氏の『HOW TO SEX』で、ズルムケることは病気でも異常でもないことを知り、安心する事になる。。。。

日本人にとっては、陰部の事は“秘め事”だから、なかなか恥ずかしくて聞けないのだ。

『HOW TO SEX』により、一皮向けた(恥ずかしを克服した)私は、啓蒙活動に励む事になる。(なんのこっちゃ)

まぁ、そんな事は、どうでもいいのだが、諸外国では、赤ちゃんの時から、皮を切っちゃうって事を知った時は、もっと、ショックだった。

それには、複雑な宗教的な問題が含んでいるという事を知って、ショックから興味に変わった。中でも強烈に印象に残っているのは、ユダヤ教徒だったパウロが自ら割礼を施しているにも関わらず、「そんな事を強要したら、イエスの教えは広まらない」とした事だ。

今でも、割礼は、クリスチャンには、野蛮な行為として蔑まれている。

2000年の時を経て、エイズの多いアフリカ。割礼の習慣がある地域での感染の少ない事が注目され始める。

Neonatal Male Circumcision: Time for a Clear Recommendation?

2010 February 18

米国小児科学会(American Academy of Pediatrics)による男性の包皮環状切除術(割礼)に対する2005年の方針では、新生児にルーティンに包皮環状切除術を行うことを支持する健康上の利益のデータは不十分であるとされている。2005年以降に入手されたデータは、包皮環状切除術の健康上の利益を明らかにするのに役立つ。

アフリカのHIV陰性の男性約10,000人(年齢範囲18~49歳)を対象とした最近のランダム化臨床試験3件では、平均で1.5~2年のフォローアップ期間中、包皮環状切除術は、包皮切除していない男性と比較して、男性の異性との性交によるHIV疾患の獲得を53~60%減少させた(日本語版Journal Watch Mar 13 2007)。2つの試験では、包皮環状切除術は、単純ヘルペスウイルス2型の感染獲得を28~34%、ペニスのヒトパピローマウイルス感染の獲得を32~35%減少させた。いくつかのエビデンスから、男性の包皮環状切除術による女性の利益としては、細菌性膣疾患、トリコモナス症、およびHIVの伝播の減少があることが示唆される。

- Howard Bauchner, MD

Published in Journal Watch Pediatrics and Adolescent Medicine February 17, 2010

Citation(s):

Tobian AAR et al. Male circumcision for the prevention of acquisition and transmission of sexually transmitted infections: The case for neonatal circumcision. Arch Pediatr Adolesc Med 2010 Jan; 164:78.
Original article (Subscription may be required)
Medline abstract (Free)

Brady MT. Newborn circumcision: Routine or not routine, that is the question. Arch Pediatr Adolesc Med 2010 Jan; 164:94.
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Medline abstract (Free)


上は、そろそろ、みんなで意識を変えようよ!って事なんだけど、、、、前にも書いてるけど、的を絞ったほうが、、、エイズ一本にしたほうが、コンセンサスは得られやすいんじゃないのかなぁ。アレにもコレにも効果があるよってのは、なんだか、、、、なぁ。

まぁ、HPV に関しては、サーバリックスのおかげで、市民権を得た感があるから良いのかも知れないけど、細菌性膣疾患、トリコモナス症など、性感染症の予防は、ちょっとねぇ・・・?


さて、『ロスト・シンボル』を読んでると、“古の知恵”って言葉がよく出てくる。作品中に、具体的に科学的な実証をしている部分があるわけじゃないんだけど、“割礼”なんかも、現代科学のフィルターを通すと“古の知恵”に見えてくるから不思議だ。単なる“宗教的儀式”にしては、4000年も続いた必然性に欠ける・・・とかなんとか、言ってみれば、ますます、“古の知恵”っぽい。

ダン・ブラウンの次回作のネタとしては、こういった、宗教的儀式と現代医療のつながり・・・・なんてね。ヒロインは新進気鋭の女性医学者で。そうすると、ラングドン教授の専門分野、象徴学にナゾを隠さなくてはならない・・・。医療と宗教的儀式は、もともと、同根だから、違和感はなくなるかも。あとは、象徴だ。

ギリシャ神話では、アスクレピオスとその杖。その父のアポロン、お師匠さんのケイロンなどにまつわるものから。史実として、ヒポクラテスの時代の地中海世界の遺跡。

探せば、イロイロと出てきそうじゃん!!さらに、信憑性を担保する為に、ルネサンス以降、近代に名を馳せた医学者(ハーベイだとかパスツールだとかの時代に。このちょっと前、近代ってのがポイント)の中に秘密結社のメンバーを探したりして、、、、、ダヴィンチは解剖学者だったし。。。


何年後かわからないけど、もし、予想が当たったら、誰か、何かご褒美ください!!

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March 05, 2010

ロスト・シンボル by ダン・ブラウン 書評・・・なのか?

20100305_clockwork_orange糖尿病じゃない成人の集団では、HbA1c値は大変重要で、5.0%未満あたりから増えるに従い「糖尿病と診断される」人も直線的に増えるという

脳卒中も同様だ。


---低けりゃ低いほどよい---


だけど、、、、糖尿病の人でも同じだったけど、HbA1c値を全死因死亡で見ると、J 字型曲線相関になり、、、


---低けりゃイイってもんじゃない---

だ。

一体、なんだい?こりゃ??えぇっ??


糖尿病って診断される事と、心血管系のリスクが上昇する事と、その人の寿命との間に、相関関係がある・・・・・のは、単に、統計学上のことであり、生物学的に相関があるって考えてはイケナイんじゃないのかなぁ??


答えは、、、こんな所にあった。

多様と言うよりは、まさに違っているのだ(Difference, Not Diversity)

Science February 26 2010, Vol.327

海洋のプランクトンのように熱帯森林でも、何千もの種が同時に一つの栄養源に対して競争を繰り広げているのかもしれない。

いったいどうやって共存関係が保たれているのか?それは生物多様性の研究において最も重要なパラドックスの一つである。

ある理論では、共存関係にある種は環境を区分して存在していると主張している。

しかし、このように区分された領域は明確には確認できない。米国南西部における共存関係にある森林の木々のデータを用いてClark(p.1129)は、各個体がそれぞれ特有の違いを有していることで、同一種の間では直接的な競争を回避していることを示している。

すなわち、光・栄養・水分に対する必要性は、同一種の木同士でも大きく異なるのかもしれないが、それでも、同一種の木によって示される特徴は全体の分布範囲におさまっているのだ。

Individuals and the Variation Needed for High Species Diversity in Forest Trees
p. 1129-1132.


上は、糖尿病に関するものじゃないけれど、考え方は同じ。人間をロボットのように扱う(メタファーです)ことの呪縛から逃れられない人達による、試験結果の考察からは、何も得られないことを示している。

人間一人ひとりの個性を、ちっぽけな“多型”と捕らえるよりは、まさに別の種の生物だと捕らえれば、検査結果の呪縛から解き放たれる・・・・・・・!!

検査結果って、要するに、工場で生産される製品の品質管理のように、許容範囲内の“誤差”“公差”を浮き彫りにするものだ。人間の体を工業製品のように扱えば簡単・・・・、安易な発想は、世の中を席巻した。なんたって、未来を予測する“神”のように振舞えるんだからね。

ところで、私は、このブログで幾度となく、私にとって理解不能な“不思議”を書いてきてるんだけど、世の中のごく一部で流行っているらしい“糖尿病専門薬剤師”ってのは、HbA1c値の扱いに、何か、説得力のあるもの持っているんだろか?患者の為、医療の質の向上の為に、何か、寄与できる事はあるんだろうか??

未だ、この手の薬剤師から、コメントが付いた事は無い。
 
 
 
さて、もう一つの私にとって理解不能な“不思議”である『ロスト・シンボル』だけど、、、、実は3月3日の発売の7日前、すなわち、2月26日には手に入れて、読み始めていた私は、、、、、ちょっと、物足りなかった。

科学と迷信との曖昧な部分を、、、、ってパターンが何回も続くと、いささか、飽きてくる。鼻に付く、、、、っていうか。。。。


そんな矢先の火曜日に、山形から後輩がやってきた。サプライズで姿を見せられたとあっては、お付き合いしないわけにはイカナイ。平日なのに(嬉しいハプニングなんだけど)。

酒を酌み交わしながら、男にとっての過去の女と、女にとっての過去の男の脳内での処理の仕方を、進化論・性淘汰で考察しあっていたせいもあって、ふと、昔話の事を思い出したのだった。

その昔話は“桃太郎”だ。

この話では、桃太郎は桃から生まれたと、日本人のほとんどが信じている。しかし、オルタネイティブな伝承によれば、、、、

 お爺さんが山に芝刈りに行っている間、お婆さんは川に洗濯に行き、そこで大きな桃を拾ってくる。桃を割ってみれば、それは普通の桃で、二人は、美味しく頂いた。ところが、食べた後、しばらくして二人の肉体は、20代の若さを取り戻したという。若い二人の間に、その晩、何があったのかは語り伝えられてはいないが、、、十月十日後に、元気な赤ちゃん、すなわち、桃太郎が生まれた。。。。

と。

はたまた、既に書いた事だけど、、、、

“旧約聖書”

木に、おいしそうな実が付いていた。
 「ねえ、これ食べてみたい」
 「えー、だって食べちゃだめって言われただろ」
 「意気地なし。男でしょ」
 「関係ねーだろ」
 「じゃ、あたしが食べたら、あんたも食べなよ」
 「やめとけって」
 ふたりの声を聞きつけて、木の上から誰かが出てきた。
 「何、もめてんの、おふたりさん」
 「この実を食ようっていうのに、この人ったら叱られるのが怖いんだって」
 「怖いなんて言ってねーよ」
 「食べたらいいさ、オイラだって毎日食べてるから」
 「ホント?」
 「ああ、大丈夫さ。さあ、食べてみな」
 疑いもせず少女は実を取り、食べてみた。
 「おいしい」
 「マジ、大丈夫?」
 「ほんと、意気地なしなんだから、はい」
 言葉とは裏腹に、小首を傾げ、にこやかに少女は実を差し出した。
 かわいい。
 男の理性は、この程度で十分崩壊するのだ。
 手渡された実を少年は一口齧った。
 その途端。
 どこからともなく声が鳴り響いた。
 驚いた少年は喉に齧った実を詰まらせてしまった。
 「その実は食べるなと言っておいたはずだぞ。お前達は私との約束を破ったので、寿命を持ち、産む苦しみを知るだろう。そして、木の上のお前は、地面を這いずるがいい」」
 木の上の何者かは、手も足も失い、地面を這いずって逃げて行った。
 蛇である。
 蛇に騙されたと知った少女は、それ以来、蛇を忌み嫌うようになった。
 少年は喉に詰まらせた実が瘤のようになった。
 喉仏である。
 そしてふたりは住んでいた園を追放された。


この時に、テロメアが制限されたものと推測することは容易である。


“八百比丘尼”

 寿命の秘薬と言われる生き物がいるという。
 それは海洋生物であった。
 ある漁師の網にそれがかかっていた
 「これを食らえば不老不死になるそうだ」
 「本当かい、お前さん」
 「ああ、俺はお前にいつまでも若くいて欲しいからな、喰ってみろ」
 「何だか、気味が悪いよ」
 「でえじょうぶだって。なんなら俺が喰って見せっから」
 「じゃあ、一緒に」
 「よし、そうしよう」
 大ぶりの出刃で肉を切り取ると、ふたりは醤油に付けて食べた。
 やはり日本人には醤油が一番である。
 「結構、うめえな」
 「鰐みたいだね」
 鰐とは、今でいう鮫のことである。
 「な、大丈夫だ」
 「これで、本当に不老不死になるのかねえ」
 「すぐにゃあ解らねえさ」
 しかし、結果は意外と早く知ることが出来た。
 男は1年も経たないうちに全身に瘤が出来て死んだ。そして、女房は葬儀を済ますと、出家し、夫を供養し続けた。
 800年に渡って。
 それは、その比丘尼にとって、あの日網にかかった上半身が人で下半身が魚の肉を食べたことを後悔し続ける日々であった。

現代で言う、テロメラーゼである。


なんて事を、思い出すと、、、、、

そして、、、、

グゥーな命名な遺伝子の筆頭だと思う“時計じかけのオレンジ”(clockwork orange、略号 cwo 理研、上田らの発見)は、生命の時刻を正確に刻んでいるわけだけど、もし、これらの遺伝子を逆向きに動かせたら、、、、、、


そう、ロスト・シンボルの読み進める速度が、速まってくるのだ。

日本の伝承にも、過去の英知、秘密にしなければならない英知があったのではないか?

過去においては、一度、生命の神秘に近づいたことがあったのではないか?


なぁ~んてね。ロスト・シンボル面白いよん!!

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December 02, 2009

高慢、強気、非妥協的、先見性、確固たる意思、強い責任感

20091202_hato世相を見るには“流行り言葉”が役に立つ時もある。

『空気が読めない』『上から目線』などが好例だ。私は、この二つの言葉がヘドが出るくらい嫌いであるが、それは置いといて、、、、

言葉自体は昔からあるのだが、“適用を間違えている”と感じるのだ。状況を正確に認識し言葉に表現しなくてはならない場面で「空気が読めない」と言って暗黙の了解を求めたり、上下関係が必要な場面で「上から目線の物言いに腹が立つ」などなど。

現代は、物腰が低く、出しゃばらず、協調性があり、未来を読まず、優柔不断、無責任が“かしこい”生き方だとされる時代である。

これは、戦前の反動ゆえ、戦後、弱者と呼ばれる人達の対応に行き過ぎがあったからなのだが、今に至り、すでに取り返しの付かない次元まで来てしまったと感じているのは、私だけではあるまい。

人の個性を表す言葉、タイトルの言葉は、明治期以前には個人のキャラクターとしては不可分であったはず。先見性があり、確固たる意思、強い責任感を持ち、国の行く末を憂う人は、高慢、強気、非妥協的にならざるを得ない。小説などでは、時代に合わせ、庶民感覚に迎合するように“登場人物”の性格を脚色する事はあるにせよ、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に『高慢、強気、非妥協的、先見性、確固たる意思、強い責任感』はよく似合う。嫌な感じはしない。

明治初頭の登場人物にしてもその通りだろう。世相が強力なリーダーを尊敬し従うという価値観があったからだ。

ところが現代の日本人は、先見性、確固たる意思、強い責任感は持っていても、高慢、強気、非妥協的は「ダメ」だという。こんなのありえないのに。


今の日本は、以前の日本と似て非なる国なのは、民主党などという究極の日和見集団が政権を取ってしまった事が、証明している。「国民目線」で国の舵取りが出来るのなら、政治家は要らない。


これが、歴史的な政権交代なのだろう。


そんな中、2009年12月1日 共同通信社によると、『長妻昭厚生労働相は1日の閣僚懇談会で、たばこ税について「健康の観点から経済協力開発機構(OECD)加盟国の平均並みに上げるべきだ」と述べた。』とあった。

「国民目線」に潰されず、1箱600円程度にすることが出来れば、私は、まだまだ、日本も民主党も捨てたもんじゃない・・・って思えるのだが。。。以前のエントリー『囚人のジレンマ』で、厭世的に「日本じゃ出来っこない」と言った事を取り消しても良い。。。。


さて、明治初頭の登場人物が活躍する、見ていてスカっとするドラマがNHKで始まった。足掛け3年の大作、『坂の上の雲』である。

「大志を抱く」ことを「かっこ悪い」って感じる腑抜けな奴らをぶっ飛ばしたくなる鬱憤を晴らす為にも、楽しみにしていた作品だ。

今年の初め、この為に文庫版全8巻を買い込んで、3ヶ月も掛けて、じっくり読んだはずなのだが、すでにところどころ、記憶が薄れてきている。。。。が、さすがにもう一度、読む気にはならない。塩野七海の「ローマ人の物語」は、何度も読み返せるのに・・・・・。

「なんでたろ?」って不思議だった。。。。でも、これ、文庫版「ローマ人の物語」第3巻の巻頭“読者へ”に、腑に落ちることが書いてあった。

 歴史への対し方には、個々の事象の研究に専念する傾向の強い学者をのぞけば、大別して次の二派に分類できるかと思う。
 第一は、マキャベリにその典型を見るタイプだ。アッピールしたいと思うことの例証として、歴史を使うやり方である。
 ・・・・・
歴史への対し方の第二派だが、・・・・ドイツのモムゼン、、、、イギリスのギボン、、、・・・・一言で言うとすれば、叙述ではないかと思う。彼らにあっては、歴史の叙述は目的であって、手段ではない。
 私は、第一と第二の優劣を論じているのではない。ただ、違うといっているだけである。・・・・・・・私も、この第二派に属す。

大分、端折ったが、大意は掴めたと思う。

私は、そこから何かを得たい為に本を読むことが多い。感動、驚き、ハラハラ、、、、知識・・と。そして、今まで生きてきて、活字になった文章で読んだ事が多いものは、学術書や論文の類だ。考察という主観はあるにせよ、科学者は「ディタッチメント」(detachment)を信条としているから、小説のような主観を押し付けられる事はない。

無意識に、そんな判断・判別をしているのかもしれない。

いわゆる、人の手垢が付いていないモノ、一次資料を糧として自分で判断したい・・・のだ。他人の価値観で染まったものを暢気に読むつもりはない。エッセイの類をあまり読まないのも、この理由からかも。嫌いじゃないんだけど、時間を使うからには、こんなものを読む為に使うのは勿体無い・・・と。打算的でもある。

だから、小説は一回以上は読む気がしないのだ。

塩野七海の「ローマ人の物語」は、著者自身が書いているように、『叙述』なのだ。だから、へんな“曲”がない。何度でも読める。。。。ただ、好きじゃないと読めないかもしれない。盛り上がりには欠けるし・・・・。
 
 
 
歴史が好きになるには、小説が手っ取り早い。断然、面白いから。だけど、知識にするには、ちとマズイ。知恵にするには、もっとマズイ。

でも、宝くじが、買わなきゃ当たらないのと同様、好きにならなきゃ、知識も増えない。少し前に、高校の授業カリキュラムから“歴史”を削るとかなんとかで、すったもんだした事があった。

たしかに、年表丸覚えと、時間の流れの“叙述”じゃつまんないかもしれない。

まず、高校生に歴史を好きになってもらうには、小説から・・・・ってのは、良い手段だと思う。その後で、バイアスを取り除いていけば良いんだから・・・(これはこれで難しいのだけれど・・・理由は後述、、するまでもないがっ・・)

反対に絶対やっちゃいけないのが、時間を遡る事だ。因果の結果から原因を探るという見方をしてはいけないのは、医療統計学をみればわかること。結果がわかっていて「原因はコレだっ」ってやるのは、自然治癒する疾患の経過観察中にミミズの乾燥粉末を飲ませて、「これで治ったのだ」ってやるようなものだからだ。よく言えば、レトロスペクティブだけど、悪く言えば“下衆の後知恵”になるからだ。

歴史の流れを捉えれば、将来を予測する何かのヒントになるって、よく『歴史が語る』と言う言葉を使う人がいるが、こういう人ほど『歴史家が語る』に染まってしまうのだ。歴史は、それ自体が後ろ向き(結果がわかっている)なので、すべての説が主観と言ってもよい。『歴史が語る』のではなく『歴史家が語る』になってしまうのだ。

人間、思い込むと交絡因子まで、因果関係ありと見えてしまう。“思い込む”という生理現象が悪いのではなく、“思い込み”を適用する場所を間違えているのだ。『思いねよらぬ力が発揮できた』などと、自己暗示などで使うのは正解だ。

だが、小説から入って歴史を好きになる事が、小説が面白いと小説家のファンになり、その主観まで正しいと思いこんでしまうのが“ネガティブ”な面なのだ。

吉田拓郎ファンは、吉田拓郎の歌詞にイチャモンをつけるという。好きだからこそイチャモンをつけるのだそうだ。小説家を好きになっても盲信しなければ、バイアスを取り除く事は簡単かもしれないが、、、、歌謡曲と小説では、どうしても小説のほうが“知的”な分、ファンは、染まるんだろうなぁ。。。。


まっ、テレビでは、NHK ですら、人気俳優を配して視聴率を稼ごうとしている。「坂の上の雲」に限らず、来年の大河ドラマは、あの 福山(ガリレオ)雅治 だ。こういうので、興味を引くって手もあるよなぁ。実際、歴女は、歴史ゲームの中のイケメン勇者に憧れちゃってるって話しだし。。。。。。まぁ、小説じゃなくってもいいのかもしんない。。。

なんて言うと、司馬遼太郎ファンには怒られそうだなっ!福山君やゲームの真田幸村と一緒にすんなってね。

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October 28, 2009

盲腸とか左心耳とか・・・

20091028_flanders人間の体の中にあって、なんだろうなぁ?、、、ってもの、けっこうある。盲腸とか左心耳とか・・・進化の名残なのか、それとも何か機能を担っているのか??

進化の名残といえば、耳のなかには、進化の名残がはっきりと証明されている。Malleus:槌骨、Incus:砧骨、Stapes:鐙骨 がそれ。ヒトが魚だった頃には“あご”の骨として使われていたものが、陸に上がって、“聴覚”を発達させる必要に迫られて、、、、、って、聴覚を発達させられたから、現在がある・・・これが正しいんだけど、、、、。


人間は、結果に理由が欲しいんだよねぇ・・・


水中では、振動が肌(触覚)で感知できる、、、、陸上では空気の振動を確実に拾い上げるには、触覚では役不足、、、、、だ!(なのか?)

相対的に同等なら、、、、捕食者も被食者も、同様に振動に鈍いままなら、外界の変化(動きは振動になる)に敏感になる(音を拾う)必要はないことになる。。。。

みんなが、他より優位に立とうとしなかったら・・・・平和だよねっ!出会いがしらが、捕食者と被食者になる分かれ道。これはしょうがない。

この辺が、共産主義、社会主義の人達の論拠なんだろう。

でも、ちょっと、まってよ!!競争で他より優位に立とう(結果的に優位になる変異)としなかったら、、、、ヒトまで進化してないじゃん!!

ご先祖様(ヒトじゃないけど)が、みんなで仲良く・・・やってたら俺たち、いないじゃん!!

ええっ?この辺、どう説明すんのよ?共産主義、社会主義の人達!!競争する(資本主義)のは、生物の本質であり、本態なんだよ。
(同様に互恵的利他行動=宗教の本質であり本態。この辺のバランスが日本人には欠落している?)


と、理論的に破綻している思想を、いじめるのはかわいそうだから、話は変えよう。


昨日、職場で、文学の効用を話し合っていた。(すごいでしょ!この高尚な職場環境!!なんちゃって!!)

その事が、頭の片隅に残っていたのだろう。今朝の通勤電車の中では、『フランダースの犬』の事を考えていた。

フランダースの犬は、知っていると思うが、とても可哀想な運命をたどる。私も、娘を寝かしつける為、絵本を読んであげることがあるのだが、うかつにも、胸がつまってしまい、声が出なくなることがある。

でも、みんなは、こんな話は知らないんじゃないかな?

フランダースの犬に踏み殺された蟻の話。それから、フランダースの犬に食い殺された野うさぎ・野ねずみの物語を。

貧しかったネロは、満足にエサをあげられなかった。だから、パトラッシュは、自力で空腹を満たすしかなかった。(半野良状態ですね!)

蟻や野うさぎ、野ねずみを主人公にお話を作ると、パトラッシェは、さながらギリシャ神話“オデュッセイア”の単眼巨人ポリュペモスの様相を呈する。

パトラッシェが静かに死んでいく様を見届け、蟻や野うさぎ、野ねずみ達は、祝宴を開くというのが、この話の大団円だ。


NHKドラマ スペシャルドラマ「坂の上の雲」が始まる。とても楽しみにしていたドラマだ。原作者の司馬遼太郎氏は、一角の歴史家だ。歴史の登場人物たちの印象を一変させる筆力があるのだから。氏の作品から歴史を好きになった人は多いといわれている。

だが、私の勘違いであれば良いのだが、氏の歴史観が“客観的に正しい事実”であると思っている人が多いのではないだろうか?氏は戦争体験者で、戦争が嫌いらしい。氏が小説を書くに当たって集める資料は膨大だという。。。だが、膨大さがバイアスを否定するという保証はない。

というより、氏の書く小説に限らず、物語に主人公が登場した時点で、主観的になるのは避けられないのだ。氏の小説にしても、主人公の目を通して当時を俯瞰してても、それは、作者の主観から離れられない。

主観を廃するというのなら、「坂の上の雲」の登場人物に関わる全ての人を主人公にして物語を作らねばならないだろう。

「フランダースの犬」を蟻や野うさぎ、野ねずみの側から見たようにね。

評論家は、小説の分類に“私小説”という言葉を使う。単に表現方法が一人称で進んでいくという事なのだろうが、言葉だけが独り歩きした結果、“私小説”でなければ“客観的”な内容になると勘違いしていく事になったのてはないだろうか?


司馬氏の歴史観が、もし自虐的な歴史観に影響を与えているとしたら、それは、大変、哀しい事だ。

外交という、高度に感情を抑えなければならない舞台に、感情を惹起することが目的の小説から歴史的な認識を得るなどいう“愚”は犯してはならない。

中国や韓国は外交を優位に進める為に、国民を煽り洗脳し感情を惹起させている。彼らと同レベルに立つ事は、自らを貶める事になるわけだから。

いや、貶めるというよりは、私流に言えば『頭が悪い』と言うことになる。

事実の認識に“感情”を伴わせて“印象”を操作する、お昼の“テレビショッピング”に騙されるのと同じレベルなんだからね。


じゃ、お前は、司馬遼太郎や「坂の上の雲」が嫌いなのか?って聞きたくなるかもしれない?

私の中では、小説はあくまで小説、文学はあくまで文学、感情が惹起される事を楽しむだけだ。そして、これは、人生の半分を占めるくらい、大事な事だと思っている。小説や物語で幸せな気分になったり、悲しんだり、主人公に感情移入したりすることが、不必要なわけが無い。

だが、事実の認識に、感情が伴う事はあってはならないと思っている。

しかるに、感情に印象(『それは重症だ』とか『そんなの軽いよ』とか)を操作されるような医療は、サイエンスではないと思っているので、事実を事実として受け止めなければと、しょっちゅう書いているわけだ。

弱者が嫌いなわけではなく、弱者が“文学的な弱者=かわいそう”を装い、横暴な振る舞いをすることが嫌いなのだ。

客観性を失わせる“文学”をサイエンスに持ち込む事は“禁忌”にすべきだ。
 
 
 
ここで、昨日の文学の効用の無駄話に戻るわけだが、史学科出身の kmoto 氏は、最近の文学部の在り方を嘆いている。文学が、科学を取り込み始めているって。。。

私も、激しく同感した。文学は、エビデンスなんて必要ない。理論的に破綻しているとか、そんな事を考えなくても良い。他人を説得できなくても良い。それは、個人が感じる事なのだから。

私の場合は、フランダースの犬に涙できなくなったら、、、、人間、お仕舞いじゃない?って感じるだけ。私にとっては、それが大事!って事。

同様に、秋山好古、、、カッコイイ・・・・、こんな“生き様”憧れるぅ・・・って。ほんとは、歴史の中では、盲腸とか左心耳だったかも知れないけど・・・ねっ!

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June 16, 2009

隠喩。暗喩。

20090616_metaphorメタファーと言ったほうが、わかりやすいのかもしれない。

ウィキペディアには、《初めてメタファーの意義に言及したと言われているのはアリストテレスであり、彼は『詩学』のなかで、「もっとも偉大なのはメタファーの達人である。通常の言葉は既に知っていることしか伝えない。我々が新鮮な何かを得るとすれば、メタファーによってである」と述べている。》と書いてある。

メタファーは、すなわち、創造力だ。

この創造力って、脳科学でも全く未解決らしいんだけど、口の悪い人に言わせると『そんなもの、チンパンジーにタイプライターを与えておけば、いずれはシェイクスピアの戯曲ができるさ』なんだとさ。でも、実際には、意味のあるセンテンス一つ出来るのに、10億年はかかりそうだ。

それはいいとして、メタファーを「単なる言葉遊びだろう」「ランダムに組み合わせているうちに出来るよ」とか言っている人に、たとえば『物事をやりすぎる』又は『ばかばかしく過度な行為をする』というメタファーを考えてみよと言うと、まるっきり出来ないらしい。


ことわざや、過去に誰かが言い表した言葉以外で、あなたも考えてみて欲しい。

わたしなんぞ、ここ、何時間も考えているけど、まるっきり出てこない。。。


メタファーという言葉から連想される作家は?と聞かれれば、がほとんどの人が“村上春樹”と答えるだろう。なにしろ、作品自体がメタファーとか、わかったようなわかんないような評をされるくらいだからね。


で、『1Q84』だ。

売り方が巧いのか、『面白いよ』と聞き買いに走ったのかはわからないが、自宅近所の本屋では、まだ、買えない。

kmoto さんはすでに読み始めている。ブログでは、「・・・・夢中になり一日中本を手放さなかった。」とある。ここで、速攻ブラウザを閉じたのは言うまでもない。読もうと思っている本の書評(メタバレ)は読みたくないからね。ただ、本日付の読売新聞朝刊に・・・・おもわず、読んでしまったのだ。遅刻しそうになりながら・・・。


世界中で“村上春樹”が読まれている。

どうやら、その理由はメタファーにあるとみて良さそうである。

ちなみに、先ほど、「あなたも考えてみて」と言ったメタファー、16~17世紀に活躍したシェイクスピアは次のように表現している。

【純金に金箔をはり、ユリの花に絵の具を塗り、スミレに香水をふりかけ、氷をなめらかにし、虹にもう一つ別の色を加える・・・・は無駄で、ばからしい、余分な事でありましょう。】

一回、聞いてしまえば、「あっ、そうだよなぁ」な表現も、自分で生み出すとなると、とんでもなく難しい。難しい事をスラスラ?こなしてしまうシェイクスピアは、やっぱり、天才であり、天才のあやつる言葉は人種、文化を越えて心に触れる。全世界で翻訳されて上演されているワケだ。

アリストテレスは、メタファーの達人は“偉大な人”と言っている。アレキサンダー大王の時代で偉大と言えば、英雄であり賢者だ。その名は世界中に轟く。現在なら、差し詰め“天才”と呼ばれるのだろう。

そういう意味では“村上春樹”は天才であり、世界中で読まれるのは当然、、、なのかもしれない。

あっ、私は村上春樹の回し者じゃありませんよっ!


p.s.(村上春樹の回し者とは、“村上春樹 萌えぇ~”のメタフアーである・・・・・・ゴメン)

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April 14, 2009

海の挽歌

20090414_natural_selection動物行動学者のコンラート・ローレンツらがノーベル医学・生理学賞を受賞したのが1973年だ。ローレンツらが研究を始めるまでは動物行動学などという領域すらなかったのだから、ノーベル賞は当然なのだが、、、、

で、ローレンツの名前を知らない人でも、ガン・カモ類のヒナが孵化した後、数分の間に見た動くものを親と思って何処までもついていく“刷り込み”という現象があることは知っているだろう。(分子生物学での“刷り込み”とは意味が違う)

ノーベル賞を同時受賞したニコ・ティンバーゲンのセグロカモメのヒナが親鳥にエサをねだるシーンで、その行動は親鳥のくちばしの先にある“赤い斑点”によって誘発される、しかも、“赤い斑点”があれば、親鳥の格好をしてないものに対しても反応する。逆に親鳥のくちばしの先端にある“赤い斑点”を隠してしまうと、ヒナはエサをねだる行動をしないという研究も有名だ。


動物行動学が学問として世に登場するまで、“人間”は、身の回りの現象や動物の行動にに高尚な寓意を持たせてきた。

「やっぱり、子は親を頼るもんだ」
「あんな鳥でも、親だってわかってるんだよなぁ」

みたいな・・・・・。

ローレンツらは、動物の行動に人間が考えているようなヒューマニズムは存在しないということを科学的に明らかにしたわけだが、私、個人的には、それは、人間の行動にも拡張できるんじゃないかと思っている。こんなことは、世が世なら、大っぴらに言えたもんじゃなかっただろう。つい最近までヨーロッパでは、教会の目が怖くて“進化論”も語れなかったんだから。(あっ!今でも教会の力は強い・・・・?)

人間まで拡張できる・・・・・っていうのは、最近、読み終えた阿刀田 高氏の【海の挽歌】を読んでいる時にも、チラチラと感じていて、阿刀田 高氏の場合は、動物行動学を知ってか知らずか、どちらにしても、野生の感?で、こういうことを知っているんじゃないかと思わせる。最近読んだ中で、真逆なのは司馬遼太郎氏だ。司馬氏の場合は、人の行動に過大に意味を持たせ、過大に影響があるとしていると感じる。もっとも、司馬氏の生きた時代は、動物行動学など知る由の無いのだから、仕方ないのだが・・・・。


【海の挽歌】は、kmoto さんから教えてもらった本だ。カルタゴに思いを馳せる主人公の人生のエピソードを綴っている物語だ。

この小説の中で、「もし、ポエニ戦争でローマが負けていたら、世の中はどうなったんだろうか?」「もし、ハンニバルがいなかったら・・・・」と。
それに対して、「でも、ハンニバルがいなくても、ローマが負けても、似たような人が現れ、ローマがヨーロッパを統治しなくても、キリスト教は広まり、現代に繋がるんじゃない」と。

私も、全く、同意見である。

人生には分岐点があり、「あの時、別の道を選んでいたら、今の自分は・・・」なんて思うシーンでも、「でも、結局、どの道を選んでも、自分の能力に変わりはないんだし、似たような生活をしているんだろう・・・」と。

これも、全く、同意見である。

単純に考えたって、1億5千年前に、とても凶暴な一匹のティラノサウルスが居なかったら・・・・・とか、そのティラノサウルスに食い殺されなかった一匹の哺乳類の祖先が・・・・とか、そんなものに地球環境の経過と生命の進化が左右されるはずも無いことは、小学生だってわかるはず。

さらに、とてつもなく影響力を持った個体が出現しなくたって、そのマイナス方向のベクトルが居なくなるだけで、帳尻は合うわけで、とてつもなく影響力を持った個体が出現する事が、すなわち、その反対の力を生むことになるわけで・・・・・

小泉元首相が居たから、反小泉が居るわけで、、、、、小泉さんが居なかったら、反小泉も居ないわけで、、、、、。事を起こす前に、反勢力があるから、依怙地になるわけで、、、、、

東郷平八郎が居なくても、野木希典がいなくても、秋山真之がいなくても、日露戦争に負けていても、右や左、前や後ろへの多少のブレはあるのだろうけど、今の我々の生活に、大きな変化はないのだろう。

一家の大黒柱が戦死しなかったら、、、っていうけど、交通事故で死ぬかもしれないし、仕事で失敗して自殺するかもしれないし、、、、、それは、東郷平八郎や野木希典や秋山真之の存在とは関係のない話で、、、、、


でも、現代には、「あの時、あっちの道を選んでいたら、今とは違っていただろう」なんて思っている人は、意外に多い。その為に、いかがわしい商売の餌食なることも多々ある。

小説の世界では、「この人がいたから、今の世の中がある」と言わせたほうが、断然、面白いのだが、その世界観を現実と区別できない人達が、まわりに振り回され、世の中に不満をぶちまける人達になるのだろう。

生半可な知識を振りかざし、「政治的判断はこうあるべき」なんて言うのは滑稽以外の何物でもないのだが、かわいそうな人でもある。周りの影響を受けやすいという意味で。影響を受けやすい人は、人の影響力を過大に評価するのだろう。たぶん、これって生まれつき・・・・・。個性の多様化は種にとって必要不可欠だから、これでいいんだろうけど。。。


さて、今回は、【海の挽歌】をネタに書いてるんだけど、阿刀田 高氏の作品は、どれも、フワフワっと頼りない感じがするんだけれど、これって、もしかしたら、【海辺のカフカ】を読んだときに感じたものと共通するかもしれない。

ロシア文学の古典くらいは読んでおかなきゃって事で読んでみた【カラマーゾフの兄弟】とは対極を為すんじゃないかな。

村上 春樹氏や阿刀田 高氏は、“野生の感”が発達しているっていうか、人間の行動を素直に受け取っている。考えすぎた“理屈”をこじつけていない。
 
 
 
ところで、“種の保存”という言葉を聞いたことのない人はいないんじゃないかな?いくら、理科の授業を聞いていなかったとしても。

しかし、この種の保存という“群淘汰”の考え方が間違いであることを知っている人は、驚くほど少ない。

では、正しい淘汰とは何なのか?

それは、遺伝子淘汰である。

リチャード・ドーキンスの【利己的な遺伝子】は知っていても、これが、生物進化において、群淘汰が間違いで遺伝子淘汰が正解であると言っている事すら知っている人は少ない。利己的な遺伝子を持っているから、「人間は“利己的なんだ”」とか、爆笑モノの勘違いを平気でしている人が、非常に多いのだ。


さて、群淘汰では「動物は種の保存の為に行動する」とか「動物の持っている性質は、種の保存に有利なものである」としている。これが何故、誤りなのかわからない人は自分で勉強してもらうとして、これに関する面白いエピソードがあるので紹介する。

背景として、霊長類以外の生物では遺伝子淘汰は比較的早くから受け入れられていた(1980年代の半ば)時代、霊長類の行動に関するある研究会で強固に群淘汰を主張している研究者がいた。それに対し、遺伝子淘汰論者の昆虫学者から、「しかし、その行動を行う行為者にとっては、それはどんな利益があるのか?」という質問が出た。そのとき、その群淘汰論者の反応は、「私は、君のように利益だ損失だという卑しい考え方はしない」というものだった。。。。。。(長谷川眞理子著【進化生物学への道】より)


生物にとっての行動は、それが自分にとって利益があるのかどうか?の一つなのだ。究極には。


欧米で、動物の行動・生態に遺伝子淘汰の考えがコンセンサスを得た時、まだ、日本では、その行動に“意味”、“意義”をもたせたい人達が沢山いたのだ。

「やっぱり、子は親を頼るもんだ」
「あんな鳥でも、親だってわかってるんだよなぁ」

みたいな・・・・・。

ただし、コンラート・ローレンツ自身は、バリバリの群淘汰論者だった。けれど、その時代には、まだ、遺伝子淘汰という考え方がなかったのだから仕方がない。
 
 
 
人間の行動に、意味・意義を付けないと、小説は面白くならない。だから、過去の小説家達は、その方法をとったのだろう。

その方面の代表者って事(他にあまり知らないし)で、司馬遼太郎氏を例に挙げるんだけど、別にそれを批判しているわけじゃない。コンラート・ローレンツが群淘汰論者だったことを批判しないようにね。問題は、その取り巻き連中なのだ。司馬遼太郎氏の『坂の上の雲』を読んで、著者自身に興味がわき、プロフィール調べてみると、氏の著作は、現代人が持つべき感覚のスタンダードみたいな評価をしている人もいて、気持ち悪くなったのだ。これが、氏を代表者として例に挙げる理由でもある。
 
 
 
生物学に、遺伝子という“言語”が加わって、格段に未来が予測できるようになった。(そういう意味では、医学は、まだ祈祷の域を出ていない。博物学のレベルだ)

歴史が未来予測のツールになる為には、遺伝子という“言語”は必須だ。

歴史に登場した人物の(その時の一般庶民も含め) DNA シーケンス及びメチル化の状態とともに事実の記述が為されて、初めて、人類は「歴史から学べる」ようになるのだろう。(ハンニバルやスキピオの DNA シーケンス及びメチル化の状態を知るすべは無いんだけど)

悲しいかな、現代の歴史学(史学)は、未来を予測するという点において、生物学が博物学だった頃のレベルだと言わざるを得ない。

現代の政治(行政や立法、司法)に口を挟む根拠として、歴史の知識、しかも、一小説家(司馬遼太郎氏)の調べ上げた事を“現代人が持つべき感覚のスタンダード”なんて扱いにしていることに対して、違和感を感じるなという方が、無理ってもんなのだ。少なくとも私にとっては。

戦争を人間が地球上の生物の一種として生まれてしまったからには避けようが無い行為の一つであると認識せずに、軍部の暴走だとかなんとか忌み嫌うだけではそれを避けうる妙案は浮かばない(たとえ、日本が太平洋戦争に突入するその軍部の暴走が第1次大戦後のドイツに対するベルサイユ条約が引き金だったと解釈していたとしても。新渡戸稲造が頑張っても、所詮、勝てば官軍。勝たなきゃ・・・って感じるのが遺伝子なのだから)。それは、サルの集団内で発生する“子殺し”を群淘汰で「個体数が増えすぎるのを抑える行動だ」なんて解釈をするのと同じなのだ。
 
 
 
そういうわけで、ここ、数年、村上 春樹氏がノーベル文学賞の候補に挙がっているのも、氏の文章に、遺伝子の存在を感じさせるものがあるからなのか・・・・なんて事を思っている。

最近の流行っていうのかな、、、、文学に遺伝子を持ち込むと、ドストエフスキーや司馬遼太郎は過去のもになり、村上 春樹氏のような人間の描写になる、、人間賛歌は、遺伝子とは対極を為すからねぇ。

なにしろ、人間は遺伝子の乗り物なんだから・・・・・by Clinton Richard Dawkins

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